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東大素粒子物理学 -過去から未来へ-
祝・ 2015ノーベル物理学賞
どんな科学も、先人たちが築いた礎の上に成り立っている。 物質の謎を解く最先端の素粒子物理学もまた同様である。 素粒子物理学は戦後どのように発展してきたのか、その源流を辿る。
(学研・大人の科学マガジンサイエンス・ライブシリーズ「東大素粒子講座 ヒッグス粒子 宇宙と物質のはじまり」)
日本全土に戦争の爪痕が未だ癒えない1949年、東京大学出身の4人の若き物理学者が、大阪市内に焼け残った小学校の校舎に集まった。彼らは、後に「自発的対称性の破れの発見」で2008年のノーベル物理学賞を受賞する南部陽一郎をはじめ、早川幸男、西島和夫、中野董夫(ただお)の面々である。校舎をGHQに接収されたため、窮余の策で小学校を仮校舎として使用していた大阪市立大学に、新設された理工学部の理論物理学を担当する教員として赴任してきたのである。当時の日本では、戦後の学制改革により各地で新たな大学が産声を上げ、東大をはじめとする旧帝国大学から優秀な研究者が日本中に職を得ていた。また、こういった人々のもとを若手の研究者が「武者修行」と称して訪れ、教えを乞うことも行われていた。2002年に「超新星ニュートリノの検出」でノーベル物理学賞を受賞する小柴昌俊もその1人で、修士課程の1年目に彼ら4人のもとを訪ねている。当時はまた、戦勝国アメリカが敗戦後の日本から多くの留学生を受け入れ始めた時期であり、シカゴ大やロチェスター大といった大学に多くの若者が学んでいた。小柴もまた、東大を卒業した後、ロチェスター大に学んでいる。
1954年1月頃、ロチェスター大に留学中の小柴昌俊(後列左端)とプリンストン高等研究所に留学中の南部陽一郎(前列右)。 1965年にノーベル物理学賞を受賞するリチャード・ファインマン(後列左から二人目)の姿もある。
当時の日本では物理学の研究はどのように行われていたのだろうか。戦時下の体制では戦争遂行、特に兵器の開発に役立つ理学工学は優先的に推進された。理化学研究所でサイクロトロン(加速器)による研究を行う仁科芳雄には原爆開発「弐號(にごう)研究」の命がおりた。しかし、終戦後は兵器開発に限らず、あらゆる原子力エネルギーの研究はGHQによって徹底的に封じられた。当時、日本国内には4台のサイクロトロンがつくられていた。これらも、生物・医学・化学の基礎研究を通して平和的な利用が可能であったにもかかわらず、原爆製造につながるとして破壊され、海に捨てられたのである。
サイクロトロンを使わずに研究を進めなければならない彼らは原子核乾板の手法に着目した。これは、写真用の感光体と同じ仕組みの乾板を、荷電粒子に反応するように調製したもので、写真フィルムと同じように露光・現像したものを顕微鏡を使って荷電粒子の軌跡を読み取り、解析するものである。小柴もまた東大の院生時代にイギリスのイルフォード社の乳剤を入手してこの実験を行っている。乳剤を塗布して乾板をつくり、富士山で宇宙線に曝してパイ中間子やミュー粒子の軌跡の長さから、質量を計算するという研究である。小柴はその後、原子核乾板の研究で実績のあるロチェスター大で博士号を取得する。1951年、戦後日本がようやく復興の軌道にのった時代であった。
国際協力による素粒子実験
時代は下り1970年代となっても、日本の素粒子物理学の実験環境はまだまだ世界に水をあけられていた。そこで小柴は、強力な加速器を必要とする超巨大素粒子実験はCERN(欧州合同原子核研究機構)など海外の機関で行い、日本では国内で実現可能な実験を行うという作戦を立てた。そこで考え出されたのが「カミオカンデ」である。当初は陽子崩壊の検出を目的に建設されたカミオカンデであるが、1985年より宇宙から飛来するニュートリノの観測も開始した。そして1987年2月、カミオカンデの名を世界に知らしめる事件が起きた。1987Aと名付けられた超新星は南半球の空に現れたため日本からは観測できなかったが、そこから放たれたニュートリノがカミオカンデで観測されたのである。
建造中(1996年)のスーパーカミオカンデの内部。光電子増倍管は直径20インチ(約50センチメートル)のものが1万2000本使われている。側面の光電子増倍管の取り付けやメンテナンスは水槽の水位を調整しながらゴムボートに乗って行う。
カミオカンデはその後、カミオカンデの10倍以上の規模をもつスーパーカミオカンデにその役目を譲った。1996年に稼動を開始したスーパーカミオカンデでは、宇宙由来のニュートリノの観測のほか、陽子崩壊の観測も継続して行われている。さらに、同様の仕組みによる次代の観測施設として、スーパーカミオカンデの20倍の規模をもつハイパーカミオカンデが構想されている。小柴のノーベル賞受賞で一躍名を馳せたニュートリノ観測施設は、改良と高度化を重ね続けているのである。
1986年に完成した国内初の衝突型加速器トリスタンもまた国内で実現可能な素粒子実験としてスタートした。トリスタンは現在の高エネルギー加速器研究機構のKEKBにつながる日本における加速器実験の礎をつくった。KEKBはアメリカ・スタンフォード線形加速器センターのPEP-IIとの競争に勝ち、世界最高ルミノシティを次々と更新していった。KEKBで行われたBelle実験は小林・益川理論の検証につながり、2008年小林誠、益川敏英が南部陽一郎とともにノーベル物理学賞を受賞することとなる。こうして、国内で「できること」から始めた素粒子実験はカミオカンデ、KEKBともに世界最高クラスの実験施設となった。
現在世界で最大の加速器はLHCである。これはCERNの施設ではあるが、その運営にはヨーロッパのみならず世界的な協力が欠かせない。2012年7月にヒッグス粒子の候補粒子を発見したATLAS研究チームに世界中から集まった3000人の中には、東京大学の27名を始め、104人の日本人研究者が参加している。
2002年10月、KEKBの積分ルミノシティ(B中間子の生産能力)100/fb達成を記念して開かれたパーティーでの記念写真。同年ノーベル物理学賞を受賞した小柴(最前列中央)とその右隣にJ/ψ中間子の発見で1976年にノーベル物理学賞を受賞したバートン・リヒター博士がゲストとして迎えられた。
さらに次世代の加速器として構想されているILC(国際リニアコライダー)。8000億円もの建設費を要するこの計画に国際的な協調が必要なのは言うまでもない。世界的な経済状況の悪化に伴い、各国の科学技術予算は削減の傾向にあるが、日本はILCの最有力誘致国として国内2か所の候補地を擁している立場であり、財政と研究両面での活躍が期待されている。こうした海外での大型実験においても、東京大学素粒子物理国際研究センターを中心に日本の担う役割はとても大きい。
戦後、加速器を失い、一度はどん底に立った日本の素粒子物理学は、世界の中心で活躍している。
―東京大学大学院理学系研究科・理学部 広報室―