2008/07/15

戸塚洋二先生のご逝去を悼む

戸塚洋二先生のご逝去を悼む

             東京大学大学院理学系研究科 物理学専攻教授 駒宮幸男

さる7月10日午前2時50分、本学の特別栄誉教授である戸塚洋二先生がご他
界された。葬儀は7月12日に青山葬儀所において各界多数の参列を得て行な
われ、故人の人望を忍ぶものであった。

戸塚洋二先生は、静岡県富士市のご出身で、本学理学部物理学科を卒業さ
れ、大学院理学系研究科では小柴昌俊教授の指導のもとで神岡鉱山の地下で
宇宙線のミュー束の研究をされ理学博士を取得された。戸塚先生と神岡の関
わりはこの時からである。

博士をお取りになった1972年には理学部の助手に採用され、ドイツのハンブ
ルクにあるドイツ電子シンクロトロン研究所(DESY)で新しく建設された電
子・陽電子衝突型加速器(DORIS)でのDASP実験に参加された。1974年には
米国のブルックヘブン国立研究所(BNL)とスタンフォード線形加速器センタ
ー(SLAC)でJ/ψ(チャームクォーク)が発見され、素粒子物理学は新たな
時代へ突入した。残念ながらDORISはJ/ψがちょうど生成されるエネルギー
よりも少し高いエネルギーで走っていたので、この大発見は逃したが、故折
戸周治先生と戸塚先生はJ/ψの仲間である新粒子Pcを発見した。

次いで、DESYではさらに大型の電子・陽電子衝突型加速器(PETRA)の建設
が進んでおり、ここでのJADE実験の準備のため途中日本に3年ほどお帰りに
なった。JADE実験が始まる前にまたドイツに戻られ、ドイツには合計6年半
ご家族で出張された。戸塚先生はPETRAでは、当時の最高エネルギーで量子
電磁力学を高精度で検証したり、電子の超対称性パートナーの探索などを行
なった。


1981年には、小柴先生が提唱された陽子崩壊探索実験であるカミオカンデ実
験建設のために日本にお帰りになり、加速器実験で培った先端技術を使っ
て、小柴先生とともに多くの研究者の先頭に立ってカミオカンデ実験を完成
させた。カミオカンデ実験は、陽子崩壊探索が第一の目的であったが検出器
がリダンダントな(機能に余裕を持った)設計であったため低エネルギーの
ニュートリノも検出できた。
これが超新星SN1987からのニュートリノを捉え、小柴先生のノーベル賞授
賞に結び付いた。また、大気ニュートリノと太陽ニュートリノが理論で予言
させるよりも少ないことが分かってきた。大気ニュートリノ異常の初めの論
文は1988年であったが、なかなか学界は認めようとせず、苦しい時代であっ
たと後に書いておられる。

1990年代に入って、戸塚先生は小柴先生の後を継いでカミオカンデの後継実
験であるスーパーカミオカンデ実験の研究代表者として実験装置を建設し
た。1998年には格段に向上した精度を持って大気ニュートリノの異常がニュ
ートリノ振動によるものであることを世界に示した。これは標準理論では質
量ゼロとされていたニュートリノが微小な質量を持つことを証明するという
画期的な成果であった。

宇宙線研究所の所長になられてからも、神岡宇宙素粒子研究施設長も兼ね
て、現場の神岡で陣頭指揮をとられていた。2000年になって、大腸癌を発症
され手術された。その直後の2001年にはスーパーカミオカンデで光電子増倍
管が大量に壊れるという事故があったが、病み上がりを押して原因解明と復
旧計画の陣頭指揮をとった。「We will rebuild the detector.There 
is no question.」という有名な激を世界に飛ばし、見事に復旧させた。

2003年には、東京大学から高エネルギー加速器研究機構(KEK)の機構長に
なられ、茨城県東海村で日本原子力研究機構とKEKのジョイントプロジェク
トであるJ-PARCを牽引し、世界の高エネルギー実験の将来計画である国際
リニアコライダーなどを推進した。東海村のJ-PARCから神岡のスーパーカ
ミオカンデにニュートリノを飛ばす壮大なT2K(Tokai to Kamioka)実験
は、To-tsu-ka と呼ばれるに相応しい実験である。

2006年には、癌の肺などへの転移が分かってKEKの機構長は3年間で辞めら
れたが、病を押して日本学術振興会学術システム研究センター長に就任さ
れ、最後まで我が国の学術研究に対して鋭い提言を行なってこられた。

戸塚洋二先生はニュートリノ振動の発見などによって、仁科記念賞、紫綬褒
賞、文化勲章、米ベンジャミンフランクリンメダル、米天文学会ロッシ賞、
米物理学会パノフスキー賞、ロシアのブルーノ・ポンテコルボ賞、ヨーロッ
パ物理学会特別賞、など数多くの賞を授賞された。ノーベル賞候補だったこ
とは報道されている通りである。

また、大学時代は空手部の副部長をされ、本学に席をおかれていた時には空
手部の顧問をされていた。お酒をたしなまれ、神岡の野山を散策され植物を
愛された。研究に対しては妥協を許さなかったが、ユーモアも解された。彼
に続く多くの研究者を育てられた。

学問上の世界的なリーダーであった戸塚洋二先生を失ったことは痛恨に耐え
ないが、永い闘病生活を最後まで生き抜かれた先生と、それを支えられたご
家族も立派であった。

心からお悔やみ申し上げます。


―東京大学大学院理学系研究科・理学部 広報室―

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