信頼をめぐって

信頼をめぐって

広報室副室長 横山 広美(科学コミュニケーション 准教授)

連載にあたって

窓は,家の中と外の風通しを保つだけでなく,ガラスに映った姿から,外から見える姿を確認することにも役立つ。理学部における私の役割は,窓のようなものだと思う。理学部の中と外の情報の風通しをよくする。さらに,外から映る理学の姿を自らに映し,問題点を修正する。そのように思い,連載のタイトルを「理学の窓」とさせていただいた。

2007年に広報室に着任後,理学の魅力や成果を社会に伝える広報担当者として,また,新しいDisciplineの確立を目指す科学コミュニケーションの研究者として,社会と理学,ひいては科学の間の軋轢を体感してきた。2009年の民主党政権による事業仕分け, 2011年の東日本大震災,途切れなく続く科学者の不正問題。その間に, 2008年には理学部卒業生の南部陽一郎先生がノーベル物理学賞を受賞したり,大きな発見に関する発表に喜んだ時もあった。この連載では,他の領域に触れることを恐れず,願わくは読者のお役に立つ形でご紹介していきたい。

科学者と信頼

科学と社会の接点を議論するにあたって,信頼は欠かせない。東日本大震災の後,科学者の信頼について議論される機会が多くなった。科学を行っていくさいに信頼は不可欠であることは当然であるが,では,そもそも信頼とは何なのか。信頼の概念について知っておくことは,科学に携わるものにとっても重要であろう。

信頼については,社会心理学の分野で研究が行われている。古典的な考え方では,信頼を形作る要素は2つ,①能力に対する信頼と②意図に対する信頼だという。科学者の場合,その人柄はすぐにはわからなくとも,専門知を有することから職務に対する能力が高いと見られるため,社会からの信頼は通常,高いはずだ。実際,社会調査を行っても科学者の信頼度は,政府やマスメディアと比較してもかなり高い。

しかし,震災後,平成24年度の科学技術白書がまとめられ,科学者の信頼は落ちたと報告された(調査方法には異論もある)。ではなぜ,科学者の信頼が落ちるのか。とくに震災後は,①において社会が期待した能力に達していなかったこともあるかもしれない。これは等身大の姿を常日頃,伝えておくことが必要だ。しかし,科学者の信頼に関する問題の多くは,②が関係している。

たとえば社会の意図を優先させず科学者の既得権益を守るように見える発言は,信頼を失う。とくに気を付けたいのは,科学技術予算に関連する社会への情報発信だ。科学者側が「プロジェクトが走る前に,国民にこの計画を支援いただけるか判断いただこう」と誠心誠意思っていても,同じ活動を見る国民が「予算をとるためのパフォーマンスだ」と受け取る可能性もある。もちろん,科学者側にそうした意図がないことはない。その紙一重の状態から,信頼にひっぱっていくのは,公平な社会感覚を身に着けた科学者のリーダーたちだ。常に社会の側に立ち,広い視野から判断し発言する。私の周りにはこうした科学者のリーダーが多いことが心強い。

近年の信頼研究はさらに進み,最近では,自分に対して有利なことをしてくれる人を信頼する,というモデルも提唱されている。もし事件に巻き込まれたときに自分を担当してくれる弁護士さんを選べるとして,能力の高い弁護士を選ぶか,あるいは自分に縁があってより自分の立場を勘案してくれる人を望むかという状況になったら,後者を選ぶ人も多いだろう。科学を取り囲む環境にも同じことが言える。しかし科学は科学。つまり信じたい事柄があるからといって,科学的事実は変わらない。なかなか,一筋縄ではいかないのは事実だ。

信頼とリテラシー

科学リテラシーが大事だ,という言葉をよく聞く。昨今では,リテラシーとは知識だけでなく,知識を活用した行動までを指す。震災後のいまは自然災害から身を守るためにも,科学リテラシーを身につけることはとても重要である。しかし私はこの言葉を聞くと,なんだかくすぐったいような,居心地の悪さを感じる。自分に経済リテラシーや法学リテラシーがどこまであるかと問われれば,かなりあやしいからだ。

私たちは日々の暮らしでさまざまなプロにお世話になっている。朝,通勤のために電車を使い,昼食には学食に入る。運転手さんやコックさんの仕事がプロフェッショナルだと信じて活用しているのだ。こうした信頼が崩れると日々の生活が成り立たないし,手続きが増えてしまう(大学の書類がその例だ)。プロに対する信頼が確立しているうえで,今日のお昼にはお弁当を作っていこうという判断をする,そうした選択肢がある状態が,人々の幸せを高くする。もし,プロに対する信頼がなければ,すべてのことを自ら判断しなければならない。科学に関しても,自ら判断する価値が強調される最近であるが,プロの価値こそ再考しなければならないようにも思う。