三四郎の置土産~重力基準点

大久保 修平(地震研究所 教授)

図1:ステルネック(Sterneck)型の重力振子。長岡半太郎らがポツダムと東京の間で比較測定をして日本の重力の値を確定するのに使用したと伝えられるもの(国立科学博物館蔵)。

図2:国立天文台編「理科年表平成21年版」, 丸善(2009)。358ページ。「加速度」の欄に東京大学理学部原点室におけるgの値が記載されている(P.7,発掘 理学の宝物「三四郎の置き土産~重力基準点」より)。

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地震研究所では,三四郎池に面した理学部化学本館地下2階1000号室を,歴史的経緯から永年にわたりお借りしている。重力基準点TOKYO-Bが置かれているからである(表紙写真)。といっても,80 cm四方の花崗岩風のブロックがあるだけなので,拍子抜けするかもしれない。でも,そのルーツには,何人もの著名人が関わっているのである。その意味では「理学部の宝物」としての資格がありそうだ。

この場所と関係ありそうな記述は,まず,夏目漱石の小説「三四郎」に見出せる。理科大学(東京大学理学部の前身)の地下室に,野々宮(漱石の弟子・寺田寅彦がモデル)という実験研究者を訪ねるくだりである。「弥生町の門から入った。(略)小使にくっついて行くと四つ角を曲がって和土の廊下を下へ降りた。(略)穴倉だから比較的涼しい。(略)三尺ぐらいの花崗石(みかげいし)の台の上に,福神漬の缶程の複雑な器械がのせてある」。「穴倉」とか「三尺(= 90 cm)ぐらいの花崗石の台」とかいう記述は,写真のイメージと一致している。漱石の記述にもとづいて当時の間取りをたどれば,「穴倉」の位置を決めることができそうである。「重力と地震の研究」で著名な坪井忠二先生(1961年10月~1963年3月の理学部長で寺田寅彦の高弟=漱石の孫弟子)によれば,穴倉は当時の物理教室の地下実験室らしいのである。実験室では,原子モデルで名高い長岡半太郎が,当時最新鋭の重力振子(写真)を用いて,1899年頃ポツダムとの間で国際的な重力比較測定を行っている〔基準点(重力値が既知gBase)と観測点(重力値は未知g)とで同一振子を用いて,その周期の比R=(T / TBase)を観測すれば,g=gBase / R2が決定できる。航空機のない時代に,遠く離れた日欧の間での比較測定を成功裏に終わらせた長岡半太郎は,979.801ガルという「世界標準」の重力値を日本にもたらした〕。だから,三四郎が見た花崗石は,初めて国際標準の重力値が与えられた近代日本の科学史的聖地ということになる。

では写真の重力点が,「三四郎の花崗石」なのだろうか? 結論から言うと,残念ながら,「三四郎の花崗石の部屋」はすでに失われて残っていないようである。しかし1904年7月9日に理科大学構内「基線尺室並振子室」が落成し,そこに重力基準点が移転したことがわかっている。新基準点はいわば2代目を襲名したというわけである(裏表紙図1,図2)。もしかすると,花崗石のブロックも一緒に移転してきたのかもしれない。

さらに時代が下がって1961年になると,現在の化学本館が建設されることになり,2代目基準点は取り壊されることとなった。しかしその分厚い土台が解体作業を阻み,ついに土台を取り去ることができなかったということである。その土台の上にブロックを設けたのが,今回紹介しているTokyo-Bである。だから,表紙写真の基準点は「3代目」穴倉というわけである。なお,1963年4月までの地震研究所は,今の理学部4号館のあたりにあった。

最後になるが,Tokyo-Bの重力値は国際重力基準網IGSN71の枠組みの中で,9.7978872 m/s2と与えられている(図2)。厳密にいえば,重力値は不変であるはずはなく,大地震や火山噴火が起こると6~7桁目が増減することがある。9桁の確度がある現在の重力計(裏表紙図3,図4)の観測でも,Tokyo-Bの重力は8桁目あたりで変動している。現在,化学本館に耐震工事が施されているが,建物の質量変化は重力変化をもたらすであろう。