失われた幕府献上魚図の発見

赤坂 甲治(臨海実験所 教授)

図1

上:「計太波寸」(ケタハス,ハス♂) 下:「目佐゛之」(めさし,メダイの幼魚)
※( )内は,「衆鱗図」記載名,現和名。

江戸時代の魚介図「衆鱗手鑑(しゅうりんてかがみ)」とみられるパネル画が三崎臨海実験所に存在することが明らかになった。魚図は描かれた原紙から輪郭に沿って正確に切り取られ,絹張りの和紙に貼り付けてある。極彩色の細密画は思わず息を呑むほどの迫力と美しさである。

発見の経緯は,昨年の三崎臨海実験所創立120周年記念シンポジウムに始まる。出席されていた磯野直秀慶應義塾大学名誉教授が,研究棟ロビーの展示ケースに入れられていた魚図に気づかれ,1年におよぶ調査を行われた。その結果,「衆鱗手鑑」の原本である可能性がきわめて高いことが明らかになった。

「衆鱗手鑑」は,1 8世紀中期の讃岐高松藩主松平頼恭が10代将軍徳川家治の依頼を受けて献上したものである。頼恭は画家に数々の動植物を描かせて収集する大名として名を馳せていた。高松城は,瀬戸内海に直接面する海城であり,海水を引き込んだ堀が三重に城を囲んでいた。その規模は,軍艦が城内に入れるほど大きかったという。「衆鱗手鑑」に収められた461点の魚図は,淡水と海水が入り混じる城の堀に棲息していた魚介類のものと思われる。頼恭は献上後も,「衆鱗手鑑」をもとに転写改訂した「衆鱗図」をつくった。「衆鱗図」は高松の松平家に現存する。しかし,原本の「衆鱗手鑑」は行方不明となり,魚介の名前を記した目録だけが松平家に残っていた。度重なる江戸城西ノ丸の火災の騒動で散逸したものと考えられている。三崎臨海実験所で発見された魚図が原本であることは,絵の精巧さと,魚の名前の漢字表記法からうかがえたが,決め手は「衆鱗手鑑」の魚介目録とほぼ完全に一致したことである。

江戸城から消えた「衆鱗手鑑」は,経緯は不明であるが,1900年に来日し,東京帝国大学臨海実験所(現三崎臨海実験所)で魚類の研究をしていた米国コロンビア大学教授のバシュフォード・ディーン(Bashford Dean)が手に入れた可能性が高い。日本の魚介類図鑑としても価値があったと思われる。のちに,37枚,145点の魚図はコロンビア大学に寄贈された。魚図の帰国に貢献されたのは小林英司8代目臨海実験所所長(1972-1975)だった。小林先生はコロンビア大学で研究をされていたこともあり,絵の存在をご存知だった。1979年の再訪の折,三崎臨海実験所とコロンビア大学の交流の記念として4枚,18点の魚図を譲り受け,三崎臨海実験所に寄贈された。しかし,受け入れのさいに混乱があったのか,磯野先生に発見されるまで,その価値は知られることなく,西川藤吉氏が描いた絵として研究室や廊下に無造作に飾られていた。なお,西川氏は東京大学で動物学を学び,初代臨海実験所所長の箕作佳吉教授と御木本幸吉氏とともに三崎臨海実験所で養殖(ミキモト)真珠の開発をした人物である。

「衆鱗手鑑」の再現は,明治時代から120年以上続く三崎臨海実験所と欧米の研究者の活発な交流の賜物といえよう。今後は,数奇な運命をたどった日本の文化財を理学のお宝として三崎臨海実験所で大切に保管し,年間延べ2万人の国内外の実験所利用者にいつでもご覧いただけるよう展示する計画である。

  • 参考文献:「衆鱗手鑑残欠の出現」磯野直秀,慶應義塾大学日吉紀要(自然科学43号, 75-89, 2008)。