ミクログラフィア初版本

長田 敏行(生物科学専攻 名誉教授)

図1

フック自作の顕微鏡で,照明装置にも工夫がされている。同時代のレーベンフークは,単眼レンズの顕微鏡で微生物を発見。

「ミクログラフィア」(MICROGRAPHIA)については,きっと多くの方が耳にされていると思います。というのは,高校生物Iの教科書の冒頭は,フック(Robert Hooke,1635-1703)が自作の顕微鏡でコルク片を見て,そこで見えた小さな区画を細胞(Cell)と名づけたというところから始まっているからです。そのミクログラフィアが発刊されたのは1665年で,その初版本が理学系研究科附属植物園蔵となっていることを紹介するのが本稿の目的です。

まず申したいのは,ミクログラフィアがたいへん面白い本であることです。序言に,「宇宙の真理を知りたいので,顕微鏡をつくって小さなものを観察し,望遠鏡をつくって遠くを観察する」といういかにも希宇壮大な動機が語られています。小さなものは針の先を観察し,最後はスバルの観察で終わり,その途中に細胞が登場します。ボイルの法則についてもその実験根拠が書かれております。実験担当者としてのフックの貢献が大きいので本当はフックの法則とよぶべきではという議論もあります。

通例フックの名前がでるのは,バネの弾性に関するフックの法則であり,クロノメーターの開発者であり,屈折望遠鏡の作製などですが,実は万有引力についても研究しているように万能の科学者であり,とくに装置の開発に手腕を発揮しています。また,1666年のロンドン大火後には建築家としても活躍しております。ところが,彼の没後王立科学協会の会長になったニュートンの巨大さに隠されてしまったということがありますが,それ以上にニュートンが積極的にフックの事跡を隠したのではという疑いが強く,やっと最近になってフックの復権がなされつつあります(注1)。ミクログラフィアは,このように理学全般の広い領域をカバーしており,細胞という述語が与えられた本です。ノミの図などの精緻なリトグラフには感動を覚えます(裏表紙)。ただし細胞学説が確立するのはフックから200年も経てからですので,細胞の機能について何か述べているわけではありません。いずれにせよ,書かれている内容のカバーする領域はとても広く,実に本学理学系研究科にあることがたいへんふさわしい書籍であろうと思います。 さて,この限られた紙幅の中で,なぜミクログラフィアが貴重であるか申しましょう。実は,ミクログラフィア初版本は,南半球とアジア圏併せて,実はこの一冊のみという話があり,そういった意味で貴重です。一昨年訪れたオックスフォード大学で調べてもらうと,さすがに英国内には少なくとも21冊が確認されているということですが,それ以外の国で貴重であることには変わりがありません。ちなみに,フックはオックスフォードに学んでいるので,フック・ライブラリーがあります。その後はロンドンのグレシャムカレッジと王立科学協会の重要メンバーとして活躍します。

では,なぜこの貴重書が植物園蔵であるかですが,入手したのは植物生理学講座初代の三好学教授で,当初私蔵で,のちに大学へ寄贈されたものです。見開きページには,三好教授のサインのほかにヴァイス(Ad. Weiss)とあり(表紙),カレル大学ドイツ語理学部教授とのことから,次のような推定が可能です。三好教授は1913年にヨーロッパへ出張するのですが,その折り今日のチェコ共和国のブルノでいま植物園にあるメンデルブドウを入手されました。そのときプラハも訪問し,ヴァイス教授からなんらかの手段で入手したと思います。多少の推測を加えると当時第一次世界大戦の直前で,社会が相当不安定ですから,購入を依頼されたのではと思います。また,ドイツ語理学部というのも多少説明が必要でしょう。すでに斜陽であったハプスブルク帝国は,新興ハンガリーの手を借りて,オーストリアハンガリー二重帝国をつくるのですが,そこでは民族均衡策(Ausgleich体制といいます)により,ドイツ語圏でもっとも古い大学であったカレル大学にもドイツ語学部とチェコ語学部が作られたのです。ちなみにかのアインシュタインが最初に正教授になったのはこの学部で1911年のことです。アインシュタインは,1922年に訪日されますが,その船中でノーベル賞の受賞を伝えられたということですが,そのとき附属植物園も訪問され対応したのは三好教授です。

これを機会にミクログラフィアの内容が研究科に広まり,その処遇が改善されればたいへんうれしく思います。

ミクログラフィアは,何度も復刻本が出ており,ペーパーバックスもあることを申し添えるとともに,少し敷衍した内容を最近発表しております(注2)

注1
Cooper, M. & Hunter, M(eds.)Robert Hooke
注2
長田敏行:植物図譜を通してみる東西の文化交流「百学連環:百科事典と植物図譜の饗宴」印刷博物館(2007)

ミクログラフィアはWEBサイトで見ることができるので各自,検索してみてください。