3つの赤外線望遠鏡

川良 公明(天文学教育研究センター 助教授)

図1:カリフォルニア工科大学2.2ミクロン赤外線望遠鏡(スミソニアン博物館所蔵)

図2:在りし日の京大1m赤外線望遠鏡(天文学教育研究センター木曾観測所に解体保管)(朝日新聞社提供)

図3:ISO遠赤外線ディープサーベイのマップ(左は波長90ミクロン,右は波長170ミクロン)

電波天文学,X線天文学の登場に伴う,電波銀河,X線星,3度K宇宙背景放射などの華々しい発見が続いた1960年代は,赤外線天文学の勃興期でもあった。これは,ミサイルの熱線追跡用に開発された赤外線センサー(PbS)の科学利用が認められたことや,波長1ミクロンからサブミリ波まで感度を持つ高感度検出器(ボロメーター)が開発されたことによる。上空ではロケット,気球,ジェット機を使った宇宙背景放射や銀河中心領域からの遠赤外線の観測が,地上からは赤外線で透明な波長帯(大気の窓と呼ばれ,波長2ミクロンや10ミクロンなどの測光帯が有名)で低温度星などの観測がなされた。

カリフォルニア工科大学のレイトンやノイゲバウアー達は,「2ミクロンで空を見たら何があるだろうか」という単純すぎるほどの理由で,サーベイ専用望遠鏡を作ることにした。エポキシ樹脂を溶かした容器の回転速度を調整して口径62インチの回転放物面を形成し,F比(口径に対する主鏡の焦点距離)が1のアルミ蒸着面を製作した。これを図1に示す。大気からの強い背景赤外線を打ち消すために,望遠鏡を20Hzで振動させることにした。2ミクロンスカイサーベイと呼ばれる観測は,ウイルソン山天文台で1965年から1968年にかけて行われ,5000個の赤外線源を含むカタログが出版された。このサーベイにより,冷たいダストに囲まれた進化の最終段階にある星や発光星雲に埋もれた若い星など,新しい種類の天体が見つかり,大口径望遠鏡による詳細な観測への道が開かれた。

日本における赤外線天文学の立ち上げは,1960年末から本格化した。東大の附置研であった東京天文台の岡山天体物理観測所において初期の観測が行われたが,共同利用望遠鏡の宿命とも言える割り当て時間の少なさ,持ち込み装置への対応性のなさなどから,赤外線専用望遠鏡の必要性が痛感された。1968年の名古屋グループ(早川,松本,水野,西村,奥田,杉本)がイカルスに発表した「Infrared Observations of the Moon」という論文が,日本人による最初の本格的な論文であろう。今では宇宙の最深部までを観測対象とする赤外線天文学にも,月しか受からなかった時代があったのである。

奥田は京大物理第二教室に移り,舞原,佐藤と共に,科学研究費一般研究(A)(1971-72年度1900万円:物理学一般分野:代表者奥田治之)によって,木曾山中に口径1mの赤外線望遠鏡を建設することになる。主鏡はアルミ切削鏡を研磨したものに金蒸着をした。駆動は,早回し,粗動,微動を電磁クラッチで切り替え,7セグメントで表示された位置やファインダーを見ながら手動で望遠鏡を制御した。背景赤外線を打ち消すために副鏡を振動させるようになっていたが,振り幅を大きく取ると,けたたましい音を立てて,近くでは声が聞こえないくらいであった。データは,ペンレコーダに書かせ目で読み取る。運用開始は1973年七夕,筆者が院生として関りを持つようになる前年である。図2に,この望遠鏡の当時の姿を示す。

この望遠鏡には「10ミクロンの空には何があるか」という漠然とした夢があった。望遠鏡にドリルで穴を開け(無許可でこんなことをしたのは後にも先にもこの時だけ),ボロメータ冷却用ヘリウムを回収するためのパイプを取り付け,10ミクロンの観測にこぎつけた。祝福するかのように,1975年には東の空からサーチライトのように上がってきたウエスト彗星,白鳥座の形を変えてしまった白鳥座新星,1976年にダスト形成を見せてくれた子狐座新星が相次いで出現し,10ミクロン観測から太陽系内ダストの性質やダスト形成に関する重要なデータが得られた。残念だったのは,鏡面精度のために望遠鏡の分解能が1分角に制限されており,背景赤外線が強く,感度が悪かったことである。「そんなことは望遠鏡の設計段階で評価すべきでしょう」とお叱りを受けそうだが,それは後知恵というものであろう。単一素子の検出器しかない時代のこと,サーベイをやるからには大きい視野を取らざるを得なかったのである。それに予算の制限もきつかった。やがてケンブリッジ空軍研究所のロケットによる10ミクロン全天サーベイがAFCRLカタログとして発表されるに至り,赤外線天文学の勃興期は確実に終わった。日本における10ミクロン観測も行われなくなった。

一方,近赤外線の観測は順調に展開し,この木曽山中の1m望遠鏡は,日本における赤外線天文学の中心的な地位を占め,博士11名を輩出し,2003年10月に使命を終えて解体された。ここにおける生活は楽しくも過酷なものであった。牧場の管理人小屋を借り受けたものを宿舎とし,水は近くの水源からパイプで引き,食事は自炊,風呂は2週間に1回程度銭湯に行った。気の利いた暖房はなく,観測から帰ると外より寒いぐらいで瓶ビールを抜くとシャーベットになった。寒波が来るとパイプが凍り,もらい水をした。近くに東大(東京天文台)木曾観測所(現在は天文学教育研究センター木曾観測所)があり,生活に関して親切な申し出があったが,人の好意に甘えるものではないという方針もあり,頼ることはなかった。

ISO(赤外線宇宙天文台)は,ESA(欧州宇宙機関)が1000億円近い巨費を投資して1995年11月に打ち上げた,口径60cm極低温冷却の軌道望遠鏡である。観測可能波長は2.4から240ミクロンで,近地点1000km,遠地点70500kmの軌道を24時間で周回し,バンアレン帯の外側にある17時間が観測可能である。しかし,ESAの受信局だけでは17時間をカバーすることが出来ず,宇宙科学研究所の受信局を使いたいとの申し出があった。オランダが中心となって英米が協力し赤外線衛星IRAS計画が実現した(1983年)という経緯から考えると,今回もNASAに提案するのが筋と思われるのだがそうではなかった。IRAS計画では,米国はデータ解析センターを新たに創設し,誰よりも早くデータ解析を済ませ,カリフォルニア工科大学の望遠鏡群を潤沢に使って誰よりも早く追求観測を行った。結果として重要な論文は米国勢に独占され,多くの人がIRASはNASA中心の計画と錯覚するに至った。IRASの苦い経験から,ESAは日本との提携を選んだのであろう。

紆余曲折の結果,宇宙科学研究所はNASAと共に参加することになった。NASAは受信局を提供し,宇宙研は受信局の運営費の一部を払うことに落ち着いたのである。それと引き換えに日本(宇宙科学研究所)はISOの観測時間を貰うことになった。筆者は,ISOと日本の連絡役として,スペインマドリッドの郊外にあるISO科学センターに駐在することとなり,ISOの観測スケジュールの作成に関ることとなった。

日本が重点を置いた観測に遠赤外線ディープサーベイというものがあり,ISOの打ち上げから数ヶ月経った頃,観測を実行した。生に近いデータを見ると遠赤外線源らしきものが数個見えるので成功を確信した。ちょうどその頃,「遠赤外線装置PHTでとったデータは信用できない,雑音が公称値よりかなり高い,再現性がない」などの苦情がユーザから来るようになった。事態を重く見たESAは,PHTのシャットダウンの可能性も含めてレビューをする会議を招集することになった。この会議において我々のデータは,以下の理由で,PHTの運用を継続することの根拠として使用されたのである。問題の観測は,標的天体のある場所と天体のない場所を交互に観測し,その差分を天体からの信号として取り出すsky choppingという技術を使ったものや,標的天体を中心とした小さい領域をマッピングしたものであった。しかし,我々のサーベイマップ(図3)によれば,ISOの分解能で見た空は遠赤外線でびっしり埋め尽くされており,天体のない場所は存在しない。従って,sky choppingや小さいマップではskyのレベルが決まらず標的の天体が見えなくても当然である。空に対する望遠鏡の軸(sky choppingの方向)が動くので,時間と共に差分信号も変動し(基準点の信号が動くから)再現性がないように見えるのも当然である。つまり,遠赤外線源の数が,予想より圧倒的に多かったことが原因だったのである。

これが判ると,それまで二の足を踏んでいたフランスのグループが俄然やる気を起こし,観測手法の詳細を筆者から聞きだし,それまでに編成されたISOの観測スケジュールに割り込む形で,大規模なサーベイ観測を実施することになった。ISOの観測スケジュールはある規則に基づいて作成されているので,その変更は余程のことがない限りできないことになっていた。その余程の理由とは「日本に重要な観測を独占されては,納税者に説明のしようがない」ということであった。結局,彼等は我々の3倍の領域を我々の手法でサーベイすることになった。日本のデータがPHTを救ったことも日本の手法を借用したことも論文の謝辞にすら書いてなく,ましてや正式な記録として残っていない。しかし,教訓は残った。「競ったときに勝つのは所有者である」と。