世界の先頭を走ろう! 東大理学部
和田 昭允(東京大学名誉教授) ※第2代目編集委員長


図:理学部物理学教室の教授・助教授(1963年)
前列向かって左から
植村泰忠,木原太郎,
今井功,小穴純,小谷正雄,平田森三,宮本梧楼,野上燿三,西川哲治  
後列向かって左から
有馬朗人,飯田修一,森永晴彦,宮沢弘成,桑原五郎,小柴昌俊,平川浩正,和田昭允,後藤英一

 

本稿では,私が経験した,「理学部ニュース」,計算機ネットワーク「タイスン(TISN, Todai International Science Network)」,そして生物物理分野,の3つそれぞれの立ち上げ期についてお話したい。1952年に理学部化学科(旧制) を卒業した私は米国ハーバード大学化学教室の研究員になり,生物物理学という新興学問の創成の場に飛び込んだ。そして1962年,講師として東大理学部物理学教室(写真)に「生物物理学研究室」 を開いた。そのころ坪井忠二理学部長から「理 学部ニュース」を出すことになったから,その編集を担当せよ」との命を受けた。私は東京大学を一般市民の皆さんに親しめるものにしようと,具体的には“学内ところどころ”欄を設け,本郷キャンパス内にある史跡を紹介するなどした。それを機に,それまで学内構成員向けの報告誌だったものに,一般向けの「広報誌」としての役割が加えられ,現在の「理学部ニュース」に至っている。

理学部評議員そして学部長としての東京大学 国際理学ネットワーク「タイスン」の立ちあげはやり甲斐があった。1988年のある秋の日の夕方だった。 当時理学部評議員だった私のところに天文学教室の吉村宏和助教授(当時)が訪ねてきた。ハワイ大学が国際的な研究用計算機ネットワークの日本への上陸先を捜しており,これを東大理学部が受けるべきだという。聞けば他の大学も動きはじめているらしい。俄然競争心が燃えて,計算機業界 にパイプをもつ坂村健・情報科学科助教授(当時) を通して富士通株式会社に寄付のお願いを申しで た。山本卓真社長以下,この国際的企業の首脳部の反応はまことに迅速・的確だった。ただちに回線使用料と周辺機器の支給をいただき,私が理学部長になった1989年4月の理学部教授会で「タイスン」が認められ,釜江常好教授(当時)がリーダーになって立派に発展させてくれた。これは現在のインターネットの先駆けともいえるものであった。

生物物理学は,私が国際ユニオンの8人の理事の一人になるなど,日本はトップ集団にいた。物理学教室の「生物物理学研究室」では「生命現象を物理学で解明しよう,これまでなかった新しい学問領域を開拓するのだ」との意気込みで,週に一度夕食後の2~3時間,だれでも参加できる「生物物理セミナー」を開いた。すると理学部だけでなくほかの学部や研究所からも元気で優秀な若手30人ばかりがきて,新着の論文を紹介しあって最先端の研究を勉強し,この新興学問のあるべき姿について議論を闘わせた。「生命の物理学的理解」というスローガンへの皆の共鳴が,ヒシヒシと伝わってきた想い出は懐かしい。ところがある教授が変なことをいい出した—「物理学で生物が 分かるはずがない」と。そして自由な大学にあっては信じがたいことだが「生物物理はイカガワシイ学問だから,和田の生物物理セミナーに出るな」 と若手教官や学生に禁足令をだした。でもさすが 東大若手のレベルは高く,禁足された諸君が「ウ チの教授がこんなこといってますよ」と笑いながら参加してくるのだから愉快だった。

さて,この8年間に私は250編のサイエンスエイを書いた。新聞や雑誌に載ったそれらは全部, 私が常任スーパーアドバイザーをしている横浜市立「横浜サイエンスフロンティア高等学校」のホームページにあるので,ご一瞥いただけたら幸である。

 次の記事 「理学部ニュースの50年と今後の50年」

理学部ニュース2019年1月号掲載


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