理学部ニュースの50年と今後の50年
牧島 一夫(東京大学名誉教授) ※元・編集委員長。右の数字は編集委員長在任期間(歴代最長)


50年前に発行された「理学部弘報」第1号(1969年1月)は,久保亮五学部長の「この弘報は,昨年来の異常事態に対し学部内に風を通すべく始めるもので,やがて新しい理学部をつくる一つの力に育ってゆくことを望む」という趣旨の巻頭言で始まる。異常事態とは,前年6月の機動隊導入から1969年冬の入試中止や安田講堂「落城」への過程をさすが,当時の理学部執行部の真剣さは,最初の4号が半月間隔で発行されたことから窺える。「弘報」は3月からは月刊に,5月から「広報」の表記になり,1972年度からは隔月発行となった。1968年4月に駒場に入学した私は,この異常事態の波をまともに被ったが,本郷に進学後も「広報」に接した記憶は乏しい。

助手で採用された宇宙航空研究所で,私は初めて広報誌に関わることになった。同研究所が 1981年度から文部省直轄の宇宙科学研究所に開組された際,故・平尾邦雄先生の卓見で広報誌「ISASニュース」が発刊され,その初代の編集委員の1人になったのである。ここでは,宇宙の解説でおなじみの的川泰宣さんに編集作業の手ほどきを受け,後の財産となった。

1986年,母校の理学部に戻り「理学部広報」を意識したが,衛星の打上げなど華々しい記事に事欠かないISASニュースにくらべ,それは古色蒼然と「見えた」。新任教員の自己紹介,退職者の挨拶などの記事を,年度初めに理学部事務が各学科に機械的に割当て,学科の編集委員が執筆者を選んでいた。1985年度から季刊となり,やがて電子媒体が浸透し始めると紙媒体不要論が高まり, 2001年度には1回のみの刊行だった。

私はそんな中, 2000年に理学部ニュースの編集に参加し,当時の佐々木晶委員長らと協力し,「ISAS ニュース」を意識しつつ,広報誌の立て直しを図った。廃刊の危機を乗り越え, 2003年度からは「理学系研究科・理学部ニュース」と改題し,部分的に色刷りを導入した。2004年11月から編集委員長を拝命すると,編集委員会を組織し,奇数月20日の刊行を厳守すること,即応性を高めること,教職員だけでなく学生・院生・学外者にも魅力的な広報誌にすることになどに注力した。 2005年度より全頁カラーになり,小柴先生のノー ベル賞記念(2002年11月)や,東日本大震災での「放射線特集」(2011年5月)では,即応性を発揮できたと思う。2012年3月で委員長を横山央明さんにバトンタッチしたが,その後も様々に進化しつつあり喜ばしい。

図:竣工直後の理学部新1号館・西棟。「理学部ニュース」1998年3月号の表紙(白黒)のカラー原版で,化学専攻の編集委員(当時)だった井本英夫氏が撮影したものを拝受した。新1号館の竣工記念パンフレットにも使われている。

この50年間を顧みると理学部は,大学院重点化 (1992年)や国立大学法人化(2004年)という変革を経験した。内部的にも,数学科と情報科学科が研究科として独立し,地球物理・地学系の4専攻の統合,2生物科学専攻と生物化学専攻の統合,三期にわたる新一号館の建造(写真)など,変化を続けて来た。そこでいま単色刷りの「広報」を読 み返すと,こうした流れを刻印しつつも,そこに は基幹学問の教育と,基礎研究とに対する,揺るぎない信念が貫かれていたことが分かる。昨今,これらは大きく揺らぎつつあり,とくに私が宇宙の研究を通じて関わってきた二つの国立研究開発法人では,トップダウン経営と時流に対する忖度により,さまざまな懸念が急増している。自分が 委員長だった折,こうした流れを十分に見通せな かった不明を反省しつつ,今後の50年は「理学部 ニュース」が,基幹教育と基礎研究に対する堅固な礎の役目を果たすことを祈念する。これが50年前の故・久保亮五先生の巻頭言に対する,われわれの答であろう。

末筆ながら,編集の苦楽を共にした教職員の皆さんに,深く感謝したい。

理学部ニュース2019年1月号掲載



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