あなたがいまこの文章を読んでいるときに,頭の中では何が起こっているだろうか。文字の形が目の網膜に映り,それが大脳皮質の視覚野に投射され,そこで文字の識別,さらに文章の理解が行われる。そして文章を理解したあとには何が起こる?「ふむふむそれで?」と思うか,「変な出だしだが奇をてらってるんじゃないの」と思うか,はたまた「どうせ中身がないだろうから読むのやめよう」と思うか,人によってさまざまだろう。

ご承知の通り,これらの営みは脳によってなされている(と思われている)。しかし驚くなかれ,文字の認識がどういう演算で行われているかといった基本的な問題にすら明確な解は得られていない。線を認識する神経細胞,簡単な形を認識する神経細胞などがあることは分っているので,だいたいこういう処理だろうという推測や数理モデルは作られている。しかし,実際の神経細胞の情報処理を見た人はいない。その理由は現実の神経回路の構造が分らないからだ。脳は多数の神経細胞からできていて,それらがシナプスにより連絡を取り合っている。われわれの脳は,1個の神経細胞が平均数千のシナプスを持つというきわめて複雑な構造をしている。このような複雑な系がどう機能しうるかということ自体,われわれの心がどう作られるかを知る上でもきわめて魅力的な課題である。

   
線虫の神経系。すべての神経に名前がつけられ,それがつくる神経回路の構造が分っている。挿入図には頭部の神経群と化学感覚神経周辺の神経回路を示す。  

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では実際の神経回路がどう情報を処理しているかを知り得る可能性はあるだろうか。哺乳類の脳では今すぐにはできないので,われわれは簡単な生き物を使ってこれを達成すべく基盤的な研究を進めている。神経回路が完全に分っている生き物が1つだけある。それが線虫C.エレガンス(Caenorhabditis elegans)だ。この長さ1mmの小さな生き物も,外からの刺激を分析してそれに適切に応答するし,嗜好性を示したり学習により行動を変化させたりする。私が学生のころに衝撃を受けたのは,この生き物ではそれを構成する全細胞に名前がつけられていて構造が完全に分っていること,したがって神経回路もぜんぶ分っていることだ。それ以来この生き物が頭から離れず,とうとうこれを使った研究を本気でやることになった。嗜好性や学習能に異常を来たした突然変異体をみつけてその行動に必要な遺伝子をつきとめ,その遺伝子が302個ある神経細胞のうちどこで働いているかを調べるいっぽうで,行動や神経活動を観測し,感覚入力から行動出力までを追ってひとつずつ観測してきた。

そして今,全神経の活動を同時に観測するというプロジェクトを進めている。神経は3次元的に分布しているので,顕微鏡の焦点面を動かしつつ高速に測定することが必要で,それが最近の技術の進歩により可能になった。現在,理学部内の光学研究者との共同研究でさらに高速化を目指している。得られた多数の神経の活動の時系列データから,神経回路上の情報の流れを再構成するための数理解析を行っている。さらに,さまざまな専門家との共同研究により,学際的なアプローチで情報処理機構を解きあかす作業を進めている。面白いのは,線虫の神経系も,外からの刺激がなくても広範な自発的活動を示すことである。神経活動のパターンに大きな個体差があることも分ってきた。冒頭に述べたような,自由な心の動きが「一寸の虫」にもあるかもしれない。今後の課題は,このような「心」(神経系の内部状態)を変化させるしくみを明らかにすることと,より高等な動物でもこのような解析を可能にしていくことである。

理学部ニュース2018年1月号掲載




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