熱力学が生まれた産業革命の時代から今日に至るまで,人類が制御できる実験精度は10桁以上進歩したが,そのすべてのスケールにおいて同じ熱力学の理論体系が適用できる。実際,熱力学は任意に定められた粗視化の階層ごとに成立し,量子効果が現れても基本的には変更を受けない。これが熱力学の普遍性である。

熱力学に現れるエントロピーは,与えられた粗視化のレベルでは識別できない,よりミクロな状態数を特徴づける。もし,そのようなミクロな自由度を測定してフィードバック制御できる「悪魔」が存在すれば,系のエントロピーを減少させることができ熱力学の第二法則が破れてしまう。これがマクスウェルの悪魔のパラドックスである。マクスウェルの悪魔が存在すると,異なった粗視化のレベルが同じ熱力学の理論体系の中に混在してしまうので,両者をうまく整合させないと理論体系に矛盾が生じてしまうのである。そのためには,ミクロな自由度を測定し,それをフィードバック制御するための熱力学的コストは何か,また,測定で得られる情報を熱力学の理論体系にどのように取り込むことができるかという興味深い問題が生じる。ミクロな自由度を人工制御できるナノサイエンスを舞台として,熱力学と情報理論が融合する新しい学問が生まれつつある。

熱力学の第二法則は,ピストンなどのマクロな熱力学的操作でできることとできないことを峻別する。エントロピーが減少する熱力学的操作は許されないのだ。しかし,ミクロな自由度が制御できる今日では,ミクロ-マクロではなく,われわれが実験的にアクセスし制御できる自由度とそうでない自由度を区別する情報量が重要な役割を果たす。そのような情報量と熱力学的エントロピーが対等な役割を果たすように熱力学の第二法則は拡張されなければならない。

統計力学は,熱力学で取り扱う物理量をミクロな立場から計算することを可能にする学問である。しかし,熱力学と統計力学は粗視化のレベルが一般には異なるので,統計力学的に計算されたエントロピーと熱力学で現れるエントロピーは一般には一致せずに定数分の差が生じる。これが熱力学的エントロピーと統計力学的エントロピーの整合性に関するギブスのパラドックスの物理的起源である。

最近,極低温に冷却された原子集団を真空中に孤立させ,その性質を研究する冷却原子気体の研究が盛んである。孤立した系を支配する法則は量子力学であるが,それに従う全系の(フォン・ノイマン)エントロピーは変化しない。ところが,現実の実験ではそのような孤立量子系も熱平衡化する。したがって,孤立量子系の熱力学的エントロピーは増大しなければならない。また,統計力学における「等確率の原理」は量子力学においてすべてのエネルギー固有状態が熱力学的極限で熱平衡化しているという「固有状態熱平衡化仮説」にとってかわられるかもしれない。もし量子力学がミクロな基礎理論ならば,熱平衡化の過程もまた量子力学から導くことができるはずであるとフォン・ノイマンは考えた。熱力学の第二法則が量子力学から導かれる日が,遠からず訪れることを期待したい。

理学部ニュース2017年7月号掲載

 



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