理学部紹介冊子
生物物理学と他の領域をゆらぐ
樋口 秀男(物理学専攻 教授/生物科学専攻兼担)
「生物物理学」とは,生物の機能や構造を根元から理解することを目指す学問領域である。名前に「物理学」と入ってはいるが,「生物を根元から理解する」点においては,学問領域を問わない。実際,私が生物物理学会に入会した1981年頃の学会員は,物理学科に所属する研究者よりも,生物学科・医・工・農学部などに所属する研究者の方が多かったと記憶している。学会で異なる分野の研究者と議論を交わすうちに,自然と生物物理学と他の学問とを融合した研究に興味を持つようになった。
最初の融合研究は,修士課程修了後(1983年)に慈恵会医科大学の生理学教室の助手になったのを機に始まった。この教室は,医学部の堅苦しさはなく「自分で考えた研究をする」自由な学風を持っていた。私は,研究テーマを見つけるために,生理学教室先代の名取礼二教授(後に文化勲章受章)の論文を読み,筋肉内の弾性構造体の存在を示唆した論文を見つけ,それが未解決であることが分かり研究テーマに選んだ。弾性体の力学測定や筋収縮との関連を調べる生理研究を進めるいっぽうで,千葉大生物の丸山工作研との生化学研究,早稲田大物理学科船津高志さんとの電子顕微鏡観察など多くの領域を跨ぐ共同研究を行った。その結果,コネクチン(別名titin)が弾性体の主成分であり,収縮タンパク質に結合し筋収縮を安定化することが明らかとなった。
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マウス腫瘍内がん細胞にたどり着いた蛍光標識抗がん剤の像 |
生理学教室からERATOプロジェクト(総括責任者:柳田 敏雄大阪大学教授)にて1分子研究を行った後,東北大工学部に赴任し,細胞内1分子観察の研究がまとまった2003年の頃だった。研究会の懇親会の際,東北大医学部腫瘍外科の大内憲明教授にマウス内の薬物1分子を観察する夢を語ったところ,教授はこれに興味を持ち共同研究がスタートした。大内研博士学生の多田寛君が手術のスキルを活かしたマウス腫瘍の解剖などの実験を進めるいっぽうで私は,マウス内1分子を観察するための装置開発を進めた。2005年頃,マウス内の悪性腫瘍に対する抗がん剤(抗体)に蛍光を結合し,これがマウス内血管を脱出し,がん細胞に結合後,細胞内を運ばれるといった薬物送達過程の1分子観察ができるようになった。臨床の基礎研究と生物物理が融合した瞬間だった。
2008年に現職となり,物理の世界に戻ってきた。最初の数年間は,東北大での研究を論文にまとめるのに時間を割いたが,合間に物理学教室でどんな研究を始めるかを模索した。長年,多種類の分子モーターの1分子運動測定を行ってきたので,分子モーターに共通な性質に興味を持っていた。そこで,東北大学理論物理学者である佐々木一夫さんに相談して,生体分子モーターに共通な理論を創る共同研究を開始した。3大分子モーター(ミオシン,キネシン,ダイニン)の1分子運動は,少数の反応経路の解析解で説明できることが分かり,分子モーターの1方向運動の戦略が見えてきた。
異分野融合の研究は相手が「面白い研究」と感じたときからスタートし,研究が進むにつれて,その領域独特の「言葉」「文化」「思考」を知り理解することで,研究が深まることをこれまでに経験した。こう難しく考えなくとも,異分野の研究者と飲みながらフランクに話せは,融合研究は自然と発生し進展するのである。