しっかりセミナーとゆるゆるセミナー:
理論計算機科学の現場の一例

蓮尾 一郎(情報理工学系研究科 講師/情報科学科兼担)

私達のように数学に近い理論研究者にとって,河東泰之先生の「セミナーの準備のしかたについて」は研究者としての心構えを説いたバイブルである。ぜひウェブで検索して読んでほしいが,「セミナー準備に使うのは50~100時間」「話の筋道を自分で再構成」「発表中は本,ノート,メモ等を見ることは一切禁止」などの教えが印象に残る。このような「しっかりセミナー」は,理論研究者の基礎体力養成のための必須科目であり,理論を「理解」するとはどういうことなのか,その(簡単ではない)答えを見つけるための唯一の方法であろう。

ゆるゆるセミナーの一風景。気づくと全員がホワイトボードの前に立っている

しかしながら,私達の研究室で週5回行うセミナーのうちの4回は,誰も準備をしていない「ゆるゆるセミナー」である。集合して,読みたい論文を合議で決めたのち,「よーいドン」でみんなで読み進んでいく。このようなセミナーを始めてしばらくたつが,その利点―― とくに,理論計算機科学において数学の抽象力を活用せんとする私達にとっての利点―― は少なくないように思える。

私達の研究室は数学と情報科学の間くらいにあって,次のような戦略で研究を行っている。まず,情報科学にすでにある具体的理論 T(p0) をもってきて,抽象数学の目でその数学的本質を「見抜き」,一般理論 T(p) を樹立する。この一般理論T(p) のパラメータpをさまざまに変えると,具体的理論 T(p1), T(p2), ...が得られる。するとこれらのどれか,たとえば T(p5) あたりが情報科学の新パラダイムに対応した新しい理論になっていることがあり,T(p5) から新奇な情報科学的応用が得られる,というわけである。ここで用いる主な数学的な道具は,抽象的構造を記述するための数学的言語としての代数学(とくに圏論)と,数学の営み自体を数学的(メタ数学的)に定式化するための論理学,おもにこの2つである。

この研究戦略の成否を分けるのは,具体的理論T(p1), T(p2), ...と情報科学的トピックとのマッチングであり,幅広いトピックに目を光らせておかなければならない。私達が取り組んでいる応用トピックは,確率的システムの検証・最適化,(自動車など)物理情報システムの開発支援と品質向上,量子プログラミング,データサイエンスのための確率的プログラミング基盤,というふうに多岐にわたる。研究室メンバーがこれらのトピックについてサーベイして,研究室内でその内容を共有し,共通する本質を発見し抽象化して,その成果をさまざまな具体的トピックに還元する―― このワークフローにおいてメンバー間の議論は決定的に重要であり,その練習として「ゆるゆるセミナー」は有効にはたらいているようなのだ。

実際のところ,研究上の議論を上手に行うのはとてもむずかしい。声が小さくて聞こえない,といった初歩的なコミュニケーション・スキルの問題もある。トピックが離れていると研究の動機付け自体が理解できないこともある。相手のちょっとしたアイデアをふくらませる姿勢もほしい。また最終的には,相手の知っている内容を推測してそれにあわせて話す,ということも必要になる。このようなスキルが同じく必要とされる場が,初見の論文の著者という「仮想敵」に共同で立ち向かい,区切り区切りで足並みをそろえながら,全員で本質の理解に至るという「ゆるゆるセミナー」だというわけだ。

もうひとつ,ゆるゆるセミナーの利点がある。「わからないとはっきりいえるのは知的成熟のあらわれだ」というのは筆者の指導教員のありがたい教えだが,学部生くらいには抵抗がある人が少なくないようだ。ゆるゆるセミナーで「ちょっと待った,ここがわからない。誰か教えて」といえるようになった学生さんを見て,「しめしめ」と思っている教員としての筆者である。

 

 

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