理学部2号館:
サンフランシスコ講和条約の頃

永田 脩一(トロント大学 (University of Toronto) 名誉教授)

 

1950年から1954年(昭和25年から29年)までの大学は,レッド・パージ(マッカーシズム)や,安保条約反対運動で,落ち着いて学業に専念できる訳ではなかった。駒場では,私たちのドイツ語の先生が追放され,愛読していた教科書ハイネの 「Die Nordsee」 輪読も中断された。私たち理科一類の学生の間では「象牙の塔に閉じ籠ってはいられない,これからは,積極的に,政治にも注意せねばならない」ということが議論された。進学した本郷では,政治関係が理由で講義が中断されることはなかったが,安保反対のデモの準備に学生室でプラカードを作り,本郷三丁目の交差点でこれを担ぎながら練り歩いた。

政治と科学の関係は,さまざまな問題を提起した。当時のソ連では,「遺伝を司るのは遺伝子ではなく,細胞が受けた環境の影響の集積であり,メンデルの系譜は反唯物弁証法的妄説である」という,ルイセンコ説が全盛期にあり,真っ当な遺伝学者はシベリア送りになったりした。理学部2号館の植物学教室でルイセンコ説が実験的に試されていたらしいが,他所では真剣な議論がなされていないようだった。

パラオ島の石貨(日比谷公園展示の石貨)

動物学者エドワード・シルヴェスター・モース (Edward S. Morse) が1877年に大森貝塚を発掘して以来,日本先史学は理学部の人類学教室を中心に盛んだった。縄文文化が日本文化の始まりで,ヨーロッパのような旧石器文化はないというのが定説だったが,群馬県・岩宿遺跡で確かめられた無土器の遺跡はこの定説を覆し,教室では炭素同位体や年輪を分析して遺跡の年代計測が必須となった。教室では,農民の地下足袋の研究,一卵性・二卵性双子の定期的身体計測,原爆・朝鮮戦争で亡くなられた犠牲者の同定,直立歩行による姿勢の変化 (医学部1号館に面した研究室には,ブランコのような実験装置があった),音声の解剖学的背景など,多様な研究がされていた。カースト制度による遺伝的隔離の研究が人類遺伝学分野としてインドでは進んでいたが,教室ではそれを取り上げるまでに至っていなかった。

人類学教室は理学部2号館の3階にあり, 2階・3階への踊り場には,アズテックの太陽の石(太陽暦を刻んだ石),パラオ島の石貨,台湾原住民の無数の吹き矢・竹槍といった戦前に集められた海外の資料等が展示されていた。新制一期の学生がいないところに,我々二期生は3名だけという寂しい状況で,登校するたびに,これらの展示物が励ましてくれるような気がした。当時の状況は,海外調査など夢のまた夢で,その後,自分がアメリカを経てカナダに永住し,海外調査をするようになるとは考えも及ばなかった。 2号館の冷・暖房施設は皆無で,学生室では夏は窓を全開,冬は石炭ストーブで暖をとっていた。冬は,このストーブの周りに集まって読書会を始め,進歩的考古学者として知られているヴィア・ゴードン・チャイルド (V.Gordon Childe)が著した「What Happened in History (1942) 」をペンギンブ ックスで輪読した。五月祭では学生室を開放して,来場者の脳容積推定をした。これは評判がよく,廊下が来場者で溢れた(脳容積計測は,今でも受け継がれ,人気企画の1つだと側聞している)。

理学部2号館での2年間は,必ずしも安易ではなかったが,多岐に渡る人間の営みを学ぶことができ,「人間科学(sciences humaines)」といわれた人類学の精神を身につける,これとない経験だった。

※1954年 理学部生物学科人類学課程卒業

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