リスクを楽しむ


フォトンサイエンス研究機構長 湯本 潤司(物理学専攻 教授)

 

東京大学に着任したのは2014年10月であるが,その前の2011年1月か
ら2014年9月まで,米国にある会社の経営を任された。もともとNTTの研究所に25年ほど勤務していたが,会社経営,それも米国の会社となると,経験がないどころか,自分のキャリアとして考えたことも無かった。実際,前任の社長と会った時,「Financial Statements (FS:財務諸表)は,当然知っているよね。」と言われたものの,「それって何ですか?」と逆に質問するという有様であった。その後赴任までの1ヶ月余りの間,赴任先からFSを送ってもらい勉強することになったが,英語の専門用語も知らず,苦労したことがいまだに思い出される。
 
米国での居住地は,ニュージャージー州(NJ) のフォート・リー(Fort Lee) という市で,マンハッタン(ニューヨーク市(NYC) の行政地区) までは,ハドソン川をはさんで目と鼻の先の距離にある。NYCは,絵画,クラシック音楽,ジャズ,ミュージカル,さらには世界中の料理の宝庫で,文化的には世界で一番の場所だと思えるが,治安は,20年前に比べると格段によくなっているとはいえ,市内で3日間殺人事件が無ければ,それ自体がニュースになるほどである。また, NY, NJ周辺には,プリンストン大学(Princeton University),コロンビア大学(Columbia University),エール大学(Yale University),さらにはベル研究所(Bell Laboratories) があり,研究者として心惹かれる場所でもある。

この環境を満喫しているだけならば良いが,実際の会社経営となると,素人社長には困難の連続であった。通常の営業活動でも顧客とのトラブルは日常茶飯事で,知財関係では裁判所から召喚状が送られてきたり,私が原告となり代金未払いで顧客を提訴したり,研究者時代には予想だにしていなかった世界に押し込まれたというのが実情であった。

ビジネスでは,想定外の出来事の連続で,顧客との関係が順調に進むことはほとんど無い。製造が間に合わず,顧客から怒鳴られたり,逆に顧客側の計画変更のため,発注がキャンセルになったりすることも珍しいことではなかった。いろいろな事情があるにせよ,顧客との交渉において,日米の考え方,交渉のスタイルが異なり,その違いを理解しない限り,海外でのビジネスは難しいことを痛感させられた。ただ,日本ほど約束を守る社会は世界中にほとんど無く,逆に言うと,日本は,想定外の事態に対応できる能力が低いのかもしれない。

厳冬のハドソン川

日本と米国とのビジネスで一番の違いは,スピード感覚だと思う。特に,私が従事していた通信関係では,事業者は急増する通信量に対応するため,利益が無くても設備投資をせざるを得ず,製品の売価が毎年10~15%低下している一方で,伝送容量を上げるための技術の開発に非常に積極的である。しかしながら,通信技術は習熟期に入っており,研究開発投資額に対して技術の進歩はさほど大きくない。その結果,新技術と低価格の板ばさみ状態で,「技術が高いことは当たり前。一番重要なのは安いこととすぐにでも納入できること」という製造業者泣かせの状況である。このようなビジネス環境になると,日本の多くの企業はなかなか力を発揮できない。米国の顧客からは,「まだ確定していなくても,条件付でよいから情報を出してくれ。」と言われても,日本の企業は,少しでも曖昧な情報は絶対に出さない。となると,日本企業が自信を持って情報開示するまで,米国企業は何もできないことになってしまい,それを回避しようとすれば,技術レベルが少々問題でも情報を開示してくれるアジア諸国の企業に頼ることになる。実際,「日本企業は,技術力は高いが,レスポンスが遅く,付合うだけで疲れてしまう。」とまで言われてしまった。

日本人は,元々,慎重な人種ではあるが,「リスクは悪いこと」という意識が強すぎるのではないだろうか。「リスクのないビジネスや研究」はあり得ないのであって,リスクを先読みし,その対応策を考えることが,競争に勝つ鉄則である。

ふと思いついたのだが,日本語と英語との別れる時の挨拶の違いである。日本語では,「お疲れ様」がよく使われるが,英語の挨拶では,「Have a good night.」や「Have a good weekend.」である。日本語では,ねぎらいであるのに対し,英語では,「次を楽しんでね。」と前向きさを感じる。日本人と欧米人を,農耕民族と狩猟民族の違いで比較することもあるが,農耕民族は,毎年のデータの積み重ねが重要だと考え,毎年同じ天候を願うのに対し,狩猟民族は,逃げられた獲物についてはくよくよせず,次の獲物を得る「戦略」を考える。昨今の不確定で先読みが難しい時代では,ある程度のいい加減さが必要で,リスクを心配するのではなく,リスクがあることを刺激として,それを楽しむぐらいの気持ちが必要ではないか。

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