錯視とウェーブレット・フレーム

新井 仁之(数学科 教授)

私たちがものを見ているとき,眼から入った外界の情報は網膜から始まって,脳のさまざまな領野で処理されている。このとき脳はどこでどのように情報処理を行っているのだろうか。これは知覚心理学や脳科学における主要な研究テーマのひとつである。現在ではfMRIの発展により,「どこで」の方はだいぶんわかってきた。しかし「どのように」という部分,つまりどのようなアルゴリズムで情報処理が行われているかは解明されていない部分も多い。筆者はそれを明らかにするために,ウェーブレットの一般化であるウェーブレット・フレーム,とくにフレームレットを使った新しい視覚系の数理モデルの開発とそれによる視知覚の研究を行っている。ウェーブレットは1980年代から工学,物理学,数学の研究者により新しいタイプの数学的道具として研究が進められ,これまでさまざまな分野に応用されてきた。たとえば画像データ圧縮の新方式 JPEG2000 にも使われている。これに対して,ウェーブレット・フレーム,フレームレットは2000年前後から研究が始められたものだが,ウェーブレットに比べ冗長であるためデータ圧縮への応用などには適さず,現時点での応用研究はまだ少ない。しかしフレームレットをうまく工夫して構成すると,視覚系のニューロンが連合して作る方位選択性と周波数選択性を兼ね備えた受容野の機能のひじょうに良い数理モデルを作れることを筆者らは見出した。しかも計算の高速アルゴリズムも可能であり,計算機実験に適していた。これを用いてわれわれは,まず視覚系の数理モデルの骨組みを作った。次に視覚野のニューロンが行うと考えられる統合的情報処理の数理モデリングを行い,その骨組みに組み込むことにより視覚の数理モデルを設計した。

この視覚の数理モデルを用いて,筆者らは錯視,すなわち視覚の錯覚の研究も進めている。もし数理モデルが適切ならばそれを実装した計算機も人間同様,錯視を起こすはずである。現在までにこの数理モデルによる統一的な方法で,明暗の錯視や色の対比錯視などを発生させる計算機シミュレーションを行うことができた。このことは錯視がどのような情報計算により発生するのかも示唆している。新しい数理科学的方法による錯視の研究が可能になってきたといえよう。ところで錯視を起こすアルゴリズムで自然画像を処理してみると,画像が鮮鋭化された。錯視は視覚系の欠陥であるという意見もあるが,われわれの研究結果は,むしろ錯視がものをよく見ようとするために形成された視覚系の副産物であることを示している。