第6回
東京大学全学センター

素粒子物理国際研究センター

センター長 駒宮 幸男(物理学専攻 教授)

素粒子物理国際研究センターのウェブサイト

素粒子物理学とは

素粒子物理学とは,物質の基本単位は何か,それらの間に働く力や法則がどうなっているかを研究する学問である。拡大解釈すると,宇宙の森羅万象の基になっている法則をつきとめるという途方もない野心をもった学問である。基本粒子の法則だけを知っていれば生命現象なども理解できるとは思ってもいないが,大手を振って何の役にも立たないことを研究しているという意味でもっとも理学部的な学問である。

とは言うものの,素粒子実験に用いる加速器や測定器は,技術のフロンティアであり,これから派生,発展した技術は,医療用の加速器,超伝導電磁石から,放射光や自由電子レーザーにいたるまで,枚挙に暇がない。インターネットの礎となったWWW(World-wide-web)は,われわれが研究活動を行っているジュネーブのCERN(欧州原子核研究機構)で発明されたもので,はじめは研究者間の情報・データやジョークのやり取りのために開発された。また,1969年に米国のフェルミ研究所という大型加速器をもつ素粒子の研究所に米国の国会議員団が来て,「このような設備が国家の安全保障にいかに役立つのか?」と,当時所長だったウイルソン氏に尋ねたが(いかにも米国的だが),所長は「直接防衛には役立たないが,守るに足る品格ある国家をつくるためには必要である」と答えたそうである。「国家の品格は素粒子物理の研究から」である。これらの状況証拠から,素粒子実験が何の役にも立たないというのは,実は「謙遜」であることがおわかりいただけるだろうか。

加速器が巨大になれば予算もかかり,一基を多くの国が共同で建設することになる。そこでの実験も巨大装置となり,世界中から研究者が集まって設計し建設してデータを解析する。協力と競争で成り立つ社会ではあるが,それゆえにフェアプレーが求められ,有能な研究者が認められる社会でもある。この学界では激越な議論が絶えないが,ひとたびまとまらねばならないときには国際的にも大同団結する(ことが多い)。

前世紀の後半には,素粒子物理学は実験と理論が相まって著しい展開が起こり,素粒子の「標準理論」が構築された。かつて素粒子だと思われていた陽子も中性子も,さらに小さな粒であるクォークからできており,今ではクォークや電子が同じレベルの素粒子であると考えられている。いまだに,この「標準理論」に背く実験的な証拠は本学の宇宙線研究所を中心としたスーパーカミオカンデ実験が発見したニュートリノに微小な質量があるという事実だけである。しかし,この「標準理論」は重力を記述できていないし,実験で決めなくてはならないパラメータが多すぎるなど,理論的なほころびが現れている。本センターが総力を上げて参加しているCERNの世界最高エネルギーの陽子・陽子衝突加速器LHC(Large Hadron Collider)において標準理論を越える新たな素粒子物理が切り拓かれるだろう。高エネルギーでの素粒子実験は,高密度超高温の宇宙初期にさかのぼり,そこで生じていた素粒子反応を実験で再現するものであり,壮大な宇宙史と極微の素粒子は深く関係している。

素粒子物理国際研究センターの沿革

図1:電子・陽電子(e+e-)衝突を低いエネルギーから最高エネルギーまで四半世紀以上にわたり測定してきた。これは前世紀における本センターの歴史そのものである。横軸は電子・陽電子の重心系エネルギー,縦軸はその衝突確率で,中央の顕著なピークは,弱い力を媒介するZボゾンの生成を表す。

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素粒子物理国際研究センターとその前身は,創設からこれまで30年以上にわたり,世界最高エネルギーの加速器を用いた素粒子物理学の実験的研究を行い,さまざまな成果を上げてきた(図1)。本センターは新たな実験を始めるたびに組織転換を繰り返してきた。センターの前身である理学部附属高エネルギー物理学実験施設を小柴昌俊教授が1974年に設立された頃は,素粒子物理学が急速な発展を遂げる革命前夜であった。まさにこの年の11月に,米国ブルックヘブン研究所とスタンフォード線形加速器センター(SLAC)でほぼ同時に,J/ψ粒子(4番目のクォーク・チャーム)が発見され「標準理論」構築への突破口が切り開かれた。残念なことに,彼らが参加していたハンブルクにあるDESY(ドイツ電子シンクロトロン研究所)の電子・陽電子衝突加速器DORISでの実験は,J/ψを生成するエネルギーを行き過ぎて高いエネルギーで走りはじめていたが,前センター長の故折戸周治氏らはJ/ψの仲間の粒子Pcを発見した。1977年には理学部附属素粒子物理国際協力施設として,DESYに新設された電子・陽電子コライダーPETRAでのJADE実験を企画・大挙して参入し,1979年には,強い相互作用の元締めの素粒子であるグルーオンを発見した。PETRAの4つの実験グループがほぼ同時に発見したのでノーベル賞にはいたっていないが,これが本センターの小林富雄教授の博士論文である。

1984年にはCERNで始まる電子・陽電子コライダーLEPでのOPAL実験に参加するため,理学部附属素粒子物理国際センターに転換し,研究者は大挙してジュネーブに移住した。LEPでは,弱い相互作用を媒介するZボゾンを大量に生成して,素粒子の世代数が3であることを精密に決定するなどの成果を上げた。LEP加速器のエネルギーを倍にするLEP-II計画のために1994年に組織を改変し,ここで理学部から独立して全国共同利用の素粒子物理国際研究センターが発足した。LEP-IIでは,素粒子の質量の起源とされるヒッグス粒子(脚注:理学部ニュース2007年3月号・理学のキーワード参照)の探索を行い,狭い質量範囲に追い詰めた。標準理論はLEPでの精密検証によって磐石な理論となった。OPALでは,本センターは約1万本の鉛ガラスカウンターよりなる電磁カロリメータという主要測定器を建設したが,実験終了まで15年間にわたってすべてのカウンターが働き実験に貢献した。OPALに参加した研究者は300名を越えたが,本センターは標準理論の精密検証,新粒子探索などで物理解析を文字通り牽引した。

2004年には新たに始まるLHCでのATLAS実験を遂行するために再度組織を転換し現在にいたる。

LHCでのATLAS実験

図2:設置が終ったATLASμ粒子トリガーチェンバーの下での集合写真(写真提供:CERN)。

今年中にはLHCが稼動を始める。長年の懸案であった素粒子の質量の起源となるヒッグス粒子と,重力も含めた超統一理論に必要な超対称性粒子群の発見によって,標準理論を越えて素粒子物理学の新たな方向を決める突破口を開くと期待する。LEPでの研究で,ヒッグス粒子の質量は114 GeVから約200 GeVの間に絞りこまれ,その発見が確実視されている。超対称性粒子群もLHCの射程圏内には潜んでいると考えられる。超対称性粒子群でもっとも軽い粒子は,宇宙の暗黒物質の有力候補である。LHCは一周27 kmの世界最大の陽子衝突加速器でありスイスとフランス両国にまたがっている。逆に回る2つの陽子ビームは,地下約100 mのトンネル内に設置された超伝導電磁石によってその軌道が曲率半径4 kmでわずかに曲げられ(裏表紙e参照),ATLAS測定器の中心で14,000 GeVの衝突エネルギーで正面衝突させ新粒子を生成する。ATLAS実験には30カ国以上から約1700人の研究者が参加している。ATLAS測定器は表紙にあるように(裏表紙aにもある)円筒を横にした形状で,高さは7階建てのビルほどもある。本センターはATLASには結成当初からその中心的なメンバーとして参加しており,本センターの小林富雄教授と高エネルギー加速器研究機構(KEK)の徳宿克夫教授がわが国の代表である。測定器ではKEKや神戸大学とμ粒子のトリガーチェンバーを建設した。これは総面積約4000畳で(図2参照),ヒッグス粒子や超対称性粒子の探索では必須の検出器である。本センターの川本辰男准教授と石野雅也助教が中心となって,政治的にも宗教的にも遠いはずのイスラエルのエンジニアとパキスタンのテクニシャンらの協力を得て現地で組み上げた(裏表紙c参照)。わが国の物理解析の中心となっているのは浅井祥仁准教授(本センターから物理学専攻に昨年移籍)で,彼はATLAS全体の超対称性探索グループのリーダーでもある。彼のもとにセンターの助教,研究員,大学院生ら約20人が物理解析の準備を行っており,世界でも強力なチームをつくっている。ATLASはいまだかつてない大量のデータを世界中の研究機関で解析するためGRIDというシステムを使っている。これは,いくつかの大きなコンピュータセンターにデータを分散して蓄積し,高速のネットワークでこれらと物理解析センターを結び,空いているCPUを見つけて効率的に物理解析を行うものである。本センターもこのGRIDの一翼を担っており,地域解析センターを昨年から運用している。GRIDは階層化していて,実質的に中心となって物理解析を行うのは第2階層(Tier2)であり,プロの真下哲郎准教授らがTier2地域解析センターの計算機システムを構築・整備し,坂本宏教授が実務と外交を行っている。

PSIでのMEG実験

図3:MEG実験の測定器シミュレーション。中央の標的(赤)で止まったμ粒子はe+とγに崩壊。e+は磁場に巻かれドリフトチェンバー(黄)に飛跡を残してタイミングカウンター(緑)でとまる。γは直進し左側の液体キセノン検出器(青)でエネルギーと到達時間が測られる。

1 m2当たりに1秒間に約100個の割合でわれわれに降りそそいでいる二次宇宙線のほとんどはμ粒子である。MEG実験は,標準理論では起こりえないμ粒子が陽電子と光子へ崩壊する事象(μ→eγ)を探索する実験である。これが発見されれば超対称性大統一理論の大きな証拠となる。ミューオン(M)が電子(E)とガンマ線(G)に崩壊する稀事象を捜すという意味で,MEG(メグ)実験と呼んでいる。現在,この崩壊分岐率の実験的上限は10-11であり,これを2桁以上下げる感度がMEG実験にはある。世界最強のμビームを出すことができるスイス・チューリヒ郊外のPSI(Paul Scherrer Institute)において昨年暮からテスト実験が始まった。この実験は本センターが中心となって企画・設計・建設したものであり,今では日本,スイス,イタリア,ロシア,米国の国際協同実験で,本センターの森俊則教授がスポークスマンである。大強度のμビームを薄い標的で止めて,μ粒子の崩壊で生じた光子と陽電子を捕える実験装置は超マニアックで,液体キセノンカロリメータ(図3参照)によって光子のエネルギーと到着時刻を測り,同時に特殊なソレノイド磁石で陽電子の軌道を曲げてひじょうに薄いドリフトチェンバーで運動量を測定しシンチレータでその時刻を測定する。これらの装置は三原智助教(現在KEK准教授)と大谷航助教らが一言では語り尽くせぬ困難を乗り越えて丹精込めてつくり上げた芸術品である(裏表紙e参照)。今年4月から本実験が始まりμ→eγ事象の世界初の発見を目指す。

そのほかの研究・教育活動

本センターは小規模ながら全国共同利用機関であり,国内の研究者のATLAS,MEG実験などへの参加窓口であるばかりでなく,国際的な研究拠点として認知されており国際学会やワークショップなどを特定領域科研費などによって開催している(裏表紙b参照)。また,将来を見据えてLHCでの発見を精密測定によって物理の原理にまで高めるための最高エネルギー電子・陽電子衝突加速器である国際リニアコライダーILCのための準備も行っており,山下了准教授らが測定器と加速器の技術開発を国際協同により精力的に進めている(裏表紙f参照)。

本センターは,人事を機動性,流動性,透明性をもって進めており,全国から優秀な人材を集めている。現在17名の専任教員のうち9名は本学以外の大学院の出身者であり,本センターの前身を含めると20名以上の教員が他組織の教授や助教授(准教授)となって転出している。本センターには25名ほどの物理学専攻の大学院生が所属している。博士課程に進むものは,国際協同実験であるATLASやMEGに参加して,現地で本センターの教員の指導のもとに他国のスタッフや大学院生と切磋琢磨しながら研究成果をあげ博士論文を書く。すなわち,最先端の研究と教育が直結している。

修士の学生は,国際協同実験で活躍できるまでの訓練を受ける必要があり,博士課程で物理解析を行う前に小実験や測定器開発などを行って基礎を身に着けて腕を磨くためのプログラムもセンターでは用意している。これによって修士で就職する学生も潰しが効く人材としてさまざまな職種で活躍している。