第5回
東京大学全学センター

遺伝子実験施設

施設長 黒田 真也(生物化学専攻 教授),飯野 雄一(生物化学専攻 教授※)

※2007年8月まで遺伝子実験施設准教授

遺伝子実験施設のウェブサイト

遺伝子実験施設の生い立ち,沿革

遺伝子実験施設は1983年(昭和58年),学内共同教育研究施設として設立された。当時,わが国では組換えDNA実験が始まったばかりで,国の安全指針もできたばかり。実験手法も確立されていない状態であった。そこで学術審議会の建議などに後押しされ,全国の主要な大学に,組換えDNA実験の普及推進と安全確保をはかる施設の設立の機運が起こった。本学の遺伝子実験施設はこの流れの一環として設置されたものである。

設立にあたっては,当時の理学部生物学科植物学教室の飯野徹雄教授を中心として,物理学科の堀田凱樹教授,生物化学科の岡田吉美教授,溝渕潔助教授らがひじょうな努力をされた。遺伝子実験施設は組織上は大学直属の全学センターであるが,このような経緯から理学系研究科に近く,事務組織も理学系研究科等事務部のお世話になり現在に至っている。実は遺伝子実験施設が組織として発足した1983年(昭和58年)の時点では居場所がなく,その後,理学部7号館の設立予定の敷地内で遺跡調査が始まった影響で,4年後の1987年(昭和62年)2月の理学部7号館の竣工まで,実際の活動開始を待つことになる。竣工に伴い,情報科学科とともに理学部7号館に入居することで実際の活動がスタートした。

図1:放射性同位元素取扱い管理区域入り口(上)と保管庫(下)

図2:減数分裂期の分裂酵母細胞(核膜と微小管を蛍光タンパク質で可視化)

図3:神経—筋結合過程のイメージング。運動神経細胞の軸索(n,マゼンタ)が標的筋肉(m,緑)と最初に接触する瞬間をとらえた。

図4:左上から時計回りに,葉のプロポーションの変異体群,葉原基におけるG2/M期細胞の分布,透明化による細胞サイズの検出,ジェノタイピング,アスパラガス属における茎の葉状化,葉サイズの変異体群,葉の横断切片と/in situ/像。さまざまな切り口から,葉の形態を司る仕組みを解こうとしている。

遺伝子実験施設の活動

遺伝子実験施設は理学部7号館の6階と7階に位置している。安田講堂の裏手で,理学部1号館,4号館,化学館に囲まれた便利な位置にある。7階は全フロアが非密封放射線同位元素取扱い施設になっている(図1)。

設立時の目的にしたがい,昭和60年代には遺伝子組換え実験の講習会や講演会を数多く開催した。また,培養細胞や植物に遺伝子を導入する方法についても研究を進め,内外の研究者を招いて情報交換を行った。また,飯野徹雄初代施設長は組換えDNA研究推進組織連絡会議委員,組換えDNA調査研究ワーキンググループ世話人,文部省バイオ研究班代表などの立場で,組換えDNA実験に関する調査や組換えDNA実験指針の改訂などに精力的に関わった。

この間,おもに理学部・大学院理学系研究科から多くの利用者を受け入れるとともに,組換えDNA技術を用いて,いろいろな生命現象に関る遺伝子機能の先端的な研究を推し進めてきた。これらの活動のかいあって,今では遺伝子組換えは簡単な実験ならどの研究室でも行えるようになったことは周知の通りである。 前記のように遺伝子実験施設は学内共同施設であるが,共同利用はプロジェクト研究と短期共同利用の二つの形態からなる。プロジェクト研究は,学内から公募した研究グループに実験室を割り当てて,遺伝子実験施設に常駐する形で遺伝子研究を進めていただいている。短期共同利用は随時申し込み可能であり,共用スペースを利用して実験を行っていただくか,機器の利用に限るものとなっている。

遺伝子実験施設の研究

遺伝子実験施設の研究は,専任教員グループ(准教授1名,助教2名)による研究とプロジェクト研究とで成り立っていることが特徴である。設立当初より一貫して,モデル生物を用いた遺伝子研究をその特色としている。以下,そのいくつかの例について紹介したい。

酵母

遺伝子組換えは原核生物である大腸菌を用いて始まり,今でも大腸菌は組換えDNAの作成になくてはならないものである。いっぽう,われわれと同じ真核生物のうちで大腸菌に匹敵する優れた研究材料が酵母である。

酵母を用いた最近のおもな研究として,本施設の山下朗助教は減数分裂の機構を調べる研究を進めている。ヒトやそのほかの生物は,遺伝子を2セットずつもっているが,配偶子である精子と卵子は遺伝子を1セットずつしかもたない。この2セットを1セットずつに分ける特殊な細胞分裂様式が減数分裂である。哺乳類では減数分裂は生殖腺内の複雑な細胞環境でしか起こらないため研究が困難であるが,酵母では,この減数分裂を実験的に起こさせることができる(図2)。本施設での研究で,減数分裂を開始させるしくみが明らかになった。減数分裂を行う遺伝子は多数あるが,これらの遺伝子からはmRNAが常につくられており,しかしそれらはいち早く分解されているという意外なことがわかった。減数分裂のときにしか必要のないRNAを,平常時からつくっては壊しているのである。分解のための新規タンパク質としてMmi1がみつかった。そして,減数分裂開始時には,Mei2というマスタージーンが働き,Mmiを除去することによりmRNAの分解を起こらなくする。減数分裂を開始するときには,分解をストップする,というスイッチがはいるのである。これら一連の過程が遺伝子クローニングと遺伝子改変,ゲノムへの挿入といった手法を用いて明確になった(理学部ニュース2006年9月号8ページ参照)。

線虫

「線虫」というと聞き慣れない読者もおられるだろうが,遺伝子研究ではポピュラーなモデル生物である。細胞数が少ないので生き物の設計図を調べるのに適しており,行動に関する突然変異体の取得がしやすいことがもうひとつの特徴である。

これを利用して遺伝子実験施設において,筆者の飯野および当施設助教の國友博文は,学習ができない突然変異体の取得を行ってきた。これらの変異体を解析して学習に必要な遺伝子をみつけ,その遺伝子の働きを調べることにより,どの神経がどう変化して過去の経験を覚えているかを知ることができる。最近明らかになった記憶制御経路のひとつはインスリン経路の遺伝子群である。インスリン様ペプチドが単一の感覚神経に働きかけることが,学習による感覚応答行動の変化に重要であることがわかった(理学部ニュース2006年11月号5ページ参照)。

神経系は生体の中でもっとも多様な組織であり,神経細胞のひとつひとつは形も性質も違う。この違いを生み出すのは遺伝子発現の違いである。ゲノム情報をもとにこの性質の違いを調べるために,マイクロアレイを用いて感覚神経など,個々の神経間での遺伝子発現の違いを調べている。マイクロアレイとは,ゲノム上の全遺伝子を一枚の素子の上に並べたものである。これを使うことにより,その神経でゲノム上の約20000個の遺伝子のうちどれが働いているか,一目瞭然に知ることができる。さらに,注目した遺伝子を破壊した線虫をつくることにより感覚繊毛の形態形成と維持に関わるDYF-11という遺伝子の働きが明らかになった。

ショウジョウバエ

ショウジョウバエは多細胞遺伝学の研究でもっとも伝統のあるモデル生物と言ってよかろう。本施設の設立に関わった堀田凱樹元教授以来,遺伝子実験施設でもショウジョウバエを用いた研究が脈々と続けられてきた。この生物でも行動変異体を取得することができる。本施設では,行動異常変異体や,神経がグリア細胞(神経支持細胞)になってしまう変異体の研究などで先駆的な成果を上げている。

いっぽう,能瀬聡直教授(新領域創成科学研究科複雑理工学専攻)の率いる現在のプロジェクト研究の関心事は,神経の配線がどのようになされるかという問題である。先に述べたように,神経細胞は多くの種類があるが,それぞれ結合する相手が決まっている。これが正確に行われることは,生物の行動を司る神経回路の形成のために必須である。そうでなければ,たとえばわれわれが親指を動かそうとしたときに小指が動くようになってしまうかもしれない。ショウジョウバエの運動神経と筋肉の結合のしかたも決まっていて,これを正確に観察することができる。このときの細胞間認識に働く,カプリシャスなどいくつかの遺伝子がみつかってきている。さらには,神経が筋肉に向けて伸びていく際に,筋肉が突起を伸ばして神経を迎えにいくという現象が最近みつかり,この過程でカプリシャスタンパク質がどう働くかの可視化にも成功している(図3)。

シロイヌナズナ

米田好文初代専任講師(現・生物科学専攻教授)以来,植物も本施設の主たる研究対象の1つである。施設内には植物栽培のための設備があり,とくに,RI管理区域の中に設けられた栽培装置(コイトトロン)は放射性同位元素を用いた植物実験が行える珍しい設備である。ここで栽培されているシロイヌナズナは植物における代表的なモデル生物で,小規模設備でも大量の材料が扱えること,突然変異体の取得がしやすいこと,すでにゲノム解読が終了していることなどが特徴である。葉のサイズや形に関する変異体が多く取得されており,塚谷裕一生物科学専攻教授の率いるプロジェクト研究では,現在これらを用いて,植物の葉の形の形成機構に焦点をおいた解析を行っている。 そもそも葉の形は,それを構成する細胞の数と形,サイズの総和として決まるわけだが,決して単なる個々の細胞の寄せ集めではない。事実,angustifolia3変異体のように,細胞の数が減ると,それを補償するかのように,細胞のサイズが逆に大きくなるという現象がある。葉をつくる個々の細胞は,何らかの方法を用いて葉全体の状況を検知しているのだろうか。多細胞生物の器官のサイズがどのようにして決定されるのかは,いまだ植物はおろか,動物でも解明されていない。この生物の形つくりの基本的な原理にもつながる疑問に答えるため,さまざまな切り口からの研究を本施設で進行中である(図4)。

遺伝子実験施設の設備と今後の課題

上述のように,遺伝子実験施設の機器はほとんどが学内共同利用機器となっている。短期共同利用の届けを行えば学内の方ならどなたでも使えるので,どうぞご利用いただきたい。詳しくはホームページをご参照のこと。

これまで紹介してきたように,組換えDNA実験の普及,啓蒙という設立当初の任務はほぼ完了されたものと考えられるが,遺伝子の機能の研究は今でも生命科学の中心的なアプローチであり,さらなる研究の推進が必要となっている。とくに,ヒトを始めおもだった生物のゲノムが解読され,ポストゲノム時代といわれる今日,遺伝子実験施設での先端的研究の推進と研究手法の開発,研究支援はますます重要になっていると考えられる。理学系研究科をはじめとする本学における研究の効率化を目指して,各方面からのご協力やご意見をお願いする次第である。