第3回
東京大学大学院理学系研究科附属

スペクトル化学研究センター

センター長 岩澤 康裕(化学専攻 教授)

スペクトル化学研究センターのウェブサイト

スペクトル化学研究センターのおいたち

当センターの前身である理学部附属分光化学センターは1976年(昭和51年),化学教室における共通汎用機器の維持・集中管理・効率的運用を計る目的で発足した。分光化学センターが化学教室に設置されたのは,化学教室がわが国の分光化学の研究教育の中心的センターとして大きな役割を果たしてきた永い歴史と実績による。発足以来,共通汎用機器類の効率的維持管理運用のみならず,新しい分光法の研究・開発に多くの実績をあげ,いっぽうで化学教室の各研究室スペースの狭隘化の緩和にも貢献した。

1983年(昭和58年)には,つくば市の高エネルギー物理学研究所(現,高エネルギー加速器研究機構)放射光実験施設に固体表面分光解析装置を設置して放射光を用いた固体表面研究が始まった。今日の東京大学の放射光連携研究機構のまさに原点的プロジェクト研究拠点であり,分光化学センター分室と称された。

1991年(平成3年)には分光化学センターの改組が行われ,超微量希土類元素研究室を併合して,理学系研究科附属スペクトル化学研究センターが発足した(時限10年)。これまでの機器分析センターとしての役割に加えて,すでにスタートしていた放射光固体表面研究の推進,超微量希土類元素化学の発展,レーザー分光研究の新展開などを目的とした。改組に伴い教授ポストが純増となり,教授1,助教授1,助手1の体制が整った。すなわち,分光化学センター設置後15年を経てやっとスペクトル化学の研究教育を推進するためのユニットが整ったのである。

2001年(平成13年)3月の時限の機にふたたび改組が行われ,4月からはさまざまな波長の電磁波を用いた物理化学研究手法の開発とその研究,およびスペクトル化学に関する教育を行うことを目的とするようになった。その後,2004年(平成16年)の大学法人化を経て現在にいたっている。

歴代センター長。( )内は在任期間

図1:スペクトル化学研究センターで独自に開発したフェムト秒時間分解近赤外分光計。測定精度を上げるために,2台の分光器(写真の上端と右下)を使っている

図2:ピコ秒時間分解ラマン分光計を「ピコ秒ラマン温度計」として利用することで観測したイオン液体中でのエネルギー移動過程。巨視的な熱伝導過程との比較から,イオン液体中での「局所構造」の存在が示唆された

図3:高エネルギー加速器研究機構・放射光研究施設(Photon Factory)にあるスペクトル化学研究センターのビームラインBL-7Aの写真(上)と長さ30mになるビームラインのレイアウト(下)

図4:独自に開発した“エネルギー分散型表面XAFS法”によって固体表面で進行する化学反応を追跡する様子の模式図

研究の中心テーマ

新しいレーザー分光法の開発と化学反応の機構解明

無色透明な液体に試薬の粉を加えた瞬間,美しい結晶が沈殿する。打ち上げられた花火の鮮やかな色が,視野いっぱいに拡がる。目の前で起こる化学反応の不思議さに心を奪われた経験をもつ読者も多いであろう。化学反応は,化学を専門とする研究者にとっても実に魅力的な現象である。と同時に,化学反応は多くの要因がきわめて複雑に関与する手ごわい研究対象でもある。

スペクトル化学研究センターでは,最新のレーザー技術を駆使した独自の分光法を開発し,これらの分光法を用いて化学反応などの重要かつ興味深い現象を観測し,その機構を解明している。最近の話題のひとつは,フェムト秒時間分解近赤外分光計(図1)の開発である。この分光計を利用すると,波長900から1500ナノメートルの近赤外領域での超高速時間分解測定を行うことができる。2系統の分光検出系を配置して高精度の測定を効率よく行える装置は,世界でここにしかない。スペクトル化学研究センターでは,この独自の分光計を用いて「束縛の緩い電子」を観測している。「束縛の緩い電子」とは,化学反応が進行する過程で原子核から部分的に自由になった電子のことである。このような電子を高速時間分解測定することで,溶液中での頻繁に起こる分子同士の衝突(1ピコ秒に10回程度)によって運動の記憶が失われてしまう前に化学反応の様子を調べることができる。すでに,もっとも基本的な化学反応の1つである電子移動反応や,われわれの生活にとってきわめて重要な光触媒反応の初期過程(キャリアの生成と反応)の解明にあたってこの分光法が大きな成果を挙げている。

ピコ秒時間分解ラマン分光法の開発と応用も,重要な研究テーマである。最近は,環境への負荷が小さい溶媒として燃料電池への応用なども進んでいる「イオン液体」の構造と物性を解明するための基本データとなる,イオン液体中でのエネルギー移動過程(図2)を観測することに成功した。

新しい放射光X線分光手法の開発と表面物理化学への応用

スペクトル化学研究センターは,国内の代表的な放射光施設のひとつである高エネルギー加速器研究機構のPhoton Factory (PF)に真空紫外・軟X線領域のビームラインを建設し,新しい方法論の開発に取り組んできた。2001年には軟X線ビームラインBL-7Aの再構築を行い(図3),偏向電磁石の軟X線ビームラインとしては世界トップクラスの光強度を得られるようになった。現在,東京大学理学系研究科をはじめ全国の大学の共同利用実験に供されており,表面科学や磁気科学の分野の多くの研究者が,日夜,実験に勤しんでいる。

スペクトル化学研究センターでは,このビームラインに特殊な設計を施し,空間分解型電子エネルギー分析器を組み合わせることによって,従来に比べてはるかに高速に表面X線吸収分光スペクトルを測定できる“エネルギー分散型表面XAFS法”の開発を行った。この手法を用いると,固体表面で進行する化学反応をリアルタイムで追跡することができるようになり(図4),自動車排気ガスを浄化するPt・Rh金属上でのCO酸化反応・NO還元反応や燃料電池の鍵となるPt触媒上での水生成反応など,環境・エネルギーに関連する重要な触媒反応の基本的メカニズムの解明に大きく貢献している。このほかにも,有機薄膜の新しい構造解析手法として,大きな有機分子の中の特定の原子の基板表面からの距離がわかる“光電子収量軟X線定在波法”を開発している。このように,スペクトル化学研究センターでは,放射光軟X線を駆使した新しい表面解析手法の開発と応用において独自の成果を発信している。

最近の研究動向

レーザー分光化学

近年のレーザー分光法の発展は,新たな非線型分光法の開発などをもたらす「光学過程への興味」と,分光法の開発によって初めて観測が可能になる「自然現象への興味」の双方に牽引されている。前者に関しては,現段階で,少なくとも紫外から可視領域においてはレーザー技術や光検出器の技術がかなり成熟してきた。今後はむしろ「自然現象への興味」の比重が大きくなると思われる。既存のさまざまな分光法を用いた顕微分光法が盛んに研究されているのも,この傾向の表れであろう。

近年,世界の各地で,高度なレーザー分光法を研究手段として利用する人々が増え続けている。しかし,新たな分光法を開発するためには,分光学の原理を理解し,新たな分光法を発想し,システムとしての分光計を設計・製作し,信頼性のある測定を行い,的確な解析を行なわなければならない。これらのすべてを行うことは,容易ではない。スペクトル化学研究センターは,自然現象を解き明かすための新たなレーザー分光法を開発することができる世界でも貴重な研究拠点である。

放射光科学

世界最高の高輝度放射光を用いて,物質科学・生命科学における最先端サイエンスを展開し,卓越した研究成果で世界をリードすることを目標にして昨年,設立された「東京大学放射光連携研究機構」にわれわれは理学系研究科を代表して参画している。この機構が推進している「東大放射光アウトステーション計画」では,兵庫県にある大型放射光施設Spring-8に世界最高輝度の「東大ビームラインBL07LSU」を建設中であり,2010年からの稼働を予定している。われわれはBL07LSU末端のひとつのエンドステーションとなる「時間分解分光ステーション」の立ち上げに加わっており,フェムト秒オーダーの表面X線手法の実現と,超高速表面ダイナミクスへの応用を目指している。元素選択性や化学種選択性に優れたX線領域の分光法の特徴を生かして,超高速現象における局所構造や局所電子状態の時間変化を調べる新たな切り口によって,どのような世界が見えてくるか,今からとても楽しみである。

化学専攻との関係

分光化学センターの設置目的と,放射光表面化学,レーザー分光化学などの研究推進のため教授ポストが配分されたことから,本センターでの研究教育は化学専攻,とくに物理化学講座4研究室と密接な関係をもって運営されてきた。しかし,スペクトル化学研究センターでは,これら先端研究機器開発と先進研究対象などの研究推進に加えて,分光化学センター当時からの汎用分析機器類の維持管理運用のミッションとの関係で,物理化学講座のみならず有機化学講座および無機・分析化学講座の各研究室とも密接な関係をもって運営されている。本センターでの研究教育は,発足当時から化学専攻の研究教育と深く関わり,同時に相補的な役割を担ってきた。そのため,歴代のセンター長は化学専攻教授が兼任している。

将来像

スペクトル化学研究センターでは,共同研究も含めて,現在,超高速分光,放射光分光に加えて,生体光計測,分子機能分光に関する研究を推進している。これらの研究は化学のみならず,物理学(宇宙物理学,物性物理学,核物理学など),天文学,生物学(構造生物学,細胞生物学など),分子生物化学,臨床医学などと関係し,それらの学問および学際領域,融合領域の発展の基盤となっている。本センターの研究教育は,理学系研究科のみならず,工学系研究科,薬学系研究科,医学系研究科,農学系研究科,総合文化研究科,新領域創成科学研究科,物性研究所,生産技術研究所,先端科学技術研究センターなど他部局とも密接な関係をもっており,東京大学の研究教育に広く貢献できる立場にある。本センターでは,これら4研究課題を中心に据え,わが国の超高速分光化学,放射光表面分光,生体光計測の研究教育拠点になると共に,学内では,副専攻制を導入することにより,放射光連携研究機構とも連携し,放射光科学の大学院教育を担う拠点としての役割を果たす。そのためにセンターの組織整備を図り,もって国際的なスペクトル科学の研究教育拠点となることを目指す。