水田圃場 –モデル植物イネの栽培と遺伝学研究の場–

水田圃場 –モデル植物イネの栽培と遺伝学研究の場–

平野 博之(生物科学専攻 教授)

図1

田植え風景

「理学の現場が,水田?」本コラムのタイトルを目にした誰もが,最初にもつ疑問だと思う。これが,筆者が以前所属していた農学生命科学研究科における「農学の現場」であるなら,何の不思議もない。しかし,「理学」と「水田」とはいったい,どのような関係があるのだろうか?これを理解していただくために,まず,植物科学研究の現状を説明することからはじめたい。

植物に限らず生物科学分野では20数年前から,いくつかの特定の生物の研究環境(ゲノムワイドな研究を進めるための分子生物学的なツール)を整備し,その生物の生命現象を遺伝子・タンパク質のレベルから深く理解しようという研究が進められている。この特定の生物は,「モデル生物」とよばれており,動物では,マウス,ショウジョウバエ,センチュウなどが,伝統あるモデル生物である。植物では,ゲノムサイズが小さいこと,世代時間が短いこと,体が小さく実験室内で多数の個体を栽培できることなどから,真正双子葉類のシロイヌナズナ (Arabidopsis thaliana)が植物の代表的なモデル生物である。

さて,植物はひじょうに多様である。単子葉類は,真正双子葉類とは進化的に離れており,被子植物の中で大きなグループを形成する。この単子葉類のモデル生物がイネ(Oryza sativa)であり,今回の「理学の現場」の主役である。ライフサイクルや大きさなどについてはシロイヌナズナのような利点はないが,ゲノムサイズが小さいこと,遺伝学的な解析に向いていること,形質転換を比較的容易に行えることなど,イネはモデル生物としての条件を備えており,ゲノムワイドの分子生物学的ツールなどその研究環境も徐々に整備されてきた。たとえば,2004年には,シロイヌナズナに次いで,植物では2番目に,全ゲノム配列の解読が完了している。このような研究環境整備と平行して,イネを対象にした生命現象の研究も進められ,発生・分化,ホルモン作用,環境応答などの分野で多くの基礎的知見が得られるようになり,一部では,シロイヌナズナをリードしている分野もある。このように,イネはモデル生物としての地位を確固たるものにし,植物科学の発展に貢献してきている。

遺伝学的な解析には多種類の突然変異系統とひじょうに多数の個体をあつかう必要があり,そのイネの栽培のために水田圃場が必要となる。私たちの研究室では,西東京市にある農学生命科学研究科附属生態調和農学機構の水田圃場を使わせていただいている。例年,12,000〜15,000個体のイネを栽培するが,その最大行事は田植えである。遺伝学的材料として多数の異なる系統をあつかうため,機械で植えるわけにはいかない。系統番号をつけたラベルにそって,1列12個体ずつ手で植えていくことになる(写真)。私たちの小さな研究室では手が足りないため,田植えのときは,興味をもってくれる近隣の研究室の院生たちの協力を仰ぐこともある。夏になると,形質調査やサンプリングのため,炎天下での作業もあり,イネの研究には体力と忍耐力も必要とされる。秋には,次年度以降の解析に必要な量の種子を収穫するが,それ以外の多くの種子(お米)は最終的には廃棄される。この点は,農業のためのイネ栽培とはかなり異なっている。「理学」としては,水田圃場での作業は,実験室内での分子生物学的な研究を通して,論文という形で稔ることになる(当研究室の成果としては,理学部ニュース2010年9月号,2012年5月号「研究ニュース」を参照)。上述したことを除くと,除草や農薬散布など水田での作業は,すべて,生態調和農学機構の技術職員の皆さんが行ってくれている。彼らの日々の協力と農学生命科学研究科の懐の深さには,心から感謝している。

わたしたちのほかには,生態学研究室がイネを研究材料としているが,こちらでは,共同研究先の農水省の研究所で栽培をしているようである。もちろん,田植えや調査には,教員や院生たちが出向いて,水田圃場の現場での研究活動をしている。

私が理学部に赴任したときには,当専攻内でも「理学部でなぜイネの研究を?」という声が聞かれた。それから9年が過ぎ,「理学の現場」に「水田圃場」が指名されるようになった。基礎研究におけるイネの地位が認められるようになってきたことを実感しているが,この企画をたてていただいた,理学部ニュース編集委員会の柔軟さとユーモアにも,敬意と感謝の意を表したい。