科学者に国境はない

吉田 知史(ブランダイス大学生物学部ローゼンスティール基礎医科学研究所 助教授)

図1

ブランダイス大学の研究室メンバーと。著者(右端)

PROFILE

吉田 知史(よしださとし)

1998年
東京大学理学部生物学科(植物)卒業
2003年
東京大学大学院理学系研究科博士課程修了博士(理学)
2003年
ハーバード大学医学部ダナファーバー癌研究所研究員
2009年
ブランダイス大学生物学部ローゼンスティール基礎医科学研究所助教授

「科学には国境はない」というのは細菌学の開祖ルイ パスツールの有名な言葉だ。国籍や人種の壁を越えて互いにしのぎを削り,また協力しあう科学者コミュニティーの本質を良く表していると言葉だと思う。実はこのあとに「しかし科学者には祖国がある」と続く。世界中から多様な人材を集め,しかもその多様性を均質化せずありのまま受け止めているアメリカの科学政策がまさにこれに当てはまる。

私は生物科学専攻の博士課程を終了後,ハーバード大学医学部へポスドクとして留学し,現在ボストン郊外にあるブランダイス大学で研究室を運営している。私の研究室では酵母細胞をモデルとして細胞の癌化や老化の分子メカニズムを少しでも明らかにすることが目標だ。

私は大学入学時から将来は研究者になりたいと漠然と考えていたが,大学院進学を真剣に考え始めたのは植物学科の3年生のときだった。 不真面目な学生だった私は臨海実習や分類学実習などは旅行気分で楽しんでいたが,講義のほうはほとんど理解できず勉強に嫌気がさしていた。当時はまだバブル景気の名残もあり文系就職した先輩が羽振りよく振る舞うのをみてビジネスマンになるのも面白いかもしれないと考えたりもした。あるとき学生実習でお世話になっていたポスドクの方に「よく毎日毎日,朝から晩まで研究室で過ごせますね?」と今思えばたいへん失礼な質問をした。愚痴や不満のひとつでも聞かされるのだろうと予想していたのだが帰ってきた答えは「いや,毎日研究室へ来るのが楽しみで仕方がない。前日の実験結果が知りたくて朝になるのが待ちきれない」というものだった。単純だった私を惹き付けるには十分な答えだった。

大学院では東江昭夫教授の植物遺伝学研究室で酵母の細胞分裂に関する研究に従事した。酵母の遺伝学は数学の証明問題を解くように論理的だ。シンプルで美しい研究にあこがれて私はたちまち酵母の研究に夢中になった。始めは数えきれない程の無駄な実験を繰り返したが東江先生は 忍耐強く見守ってくださった。 数々の失敗の中から良い実験を組むことの大切さを学んだ。大学院生活は必ずしも順調だったわけではない。毎日遅くまで実験するのは全く苦ではなかったが,自分が研究者としてうまくやっていけるかどうかは常に不安でもあった。私がなんとか博士課程を終了することができたのは 研究室内外の先輩,それから同じ目標をもつ友人達の存在のおかげだ。そして何よりも研究が面白かったからだ。

大学院終了時にボストンへ留学することに決めたのは,ひじょうに競争的な環境でも自分が研究者として通用するかを試したかったからだ。留学先のボスと面接をしたのはちょうど巨人の松井秀喜選手がヤンキースに移籍を決めたころで 「自分もヤンキース(ハーバード)で野球(研究)がしてみたいんだ。」とアピールしたことを覚えている。日本の科学技術が進歩した現在,アメリカに留学する必要があるのかと問われれば「おそらく必要ではない」と答えるだろう。しかし留学は私に貴重な経験や転機をもたらしてくれた。留学するメリットのひとつは外国人研究者とのネットワークができることだ。論文でしか名前をみたことのない著名研究者と知り合う機会は格段に多い。毎日研究室で苦楽をともにする同僚ポスドクや学生との交流は世界中に友人のネットワークを広げてくれる。また意外かもしれないが,ボストンでは多くの日本人研究者と知り合うことができた。マイノリティーであるがゆえに「 日本人だから」という理由だけで,分野の違う研究者と知り合うことができたのも大きな財産だ。

留学して5年目になるころ,身の振り方を考えることになった。研究者としてポスドクの次のステップは,自分の研究室をもち独立することだ。最終的にブランダイス大学を選んだのは,まだしばらくアメリカで挑戦を続けてみたくなったからだ。英語を流暢にしゃべれない外国人の私に大きなチャンスを与えてくれたことには感謝しても仕切れない。

ブランダイス大学に研究室を構えてからは,実験三昧だったポスドク時代とは異なり,日中は授業,学生の指導,試薬/機械の発注,研究費や論文の審査などといった,自分の研究とは直接関係のない仕事が一気に増え,とても忙しい毎日を送っている。研究にはお金がかかる以上,競争的な側面も大きく,研究費の申請や論文投稿に大きなストレスがかかるのは紛れもない事実だ。忙しい毎日だが研究者になって本当に良かったと感じている。煎れたてのカプチーノを片手に新着の論文を読むのは至福の時間だ。私の小さな研究室から面白い発見が飛び出すのを,わくわくしながら毎朝研究室へ通っている。