科学を描く

菊谷 詩子(サイエンス・イラストレーター)

図1

図1:Natural History magazine '97年11月号に掲載されたゾウの鼻のイラスト

図2

図2:展覧会会場で自身の描いた絵の前に立つ筆者

PROFILE

菊谷 詩子(きくたに うたこ)

1993年
東京大学理学部生物学科卒業。
1995年
東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻修士課程修了。
1997年
カリフォルニア大学サンタクルーズ校サイエンスコミュニケーション学科サイエンス・イラストレーションプログラム修了。
2002年
ボローニャ国際絵本原画展(ノンフィクション部門)入選。

サイエンス・イラストレーションとは専門書や教科書,図鑑,研究論文などに使われる科学的な内容を説明するイラストのことである。それらを専門に描くのがサイエンス・イラストレーターで,私はそれを生業としている。元々,生物学科出身なので描く対象は生物系のものが多いが,素粒子からビッグバンまで,知識や年齢もさまざまな人々に,科学を身近に感じてもらうためのイラストを日々描いている。この仕事に求められることは,科学的な知識を身につけ,内容を正確にわかり易く,ターゲットに適切な難度の絵にしてゆくこと,そして科学の魅力を伝えてくことだと考えている。

私がこの世界に入ったのは,大学院在学中にサイエンス・イラストレーションという分野があり,専門イラストレーターを養成するコースをもつ大学の存在を知ったのがきっかけである。幼少期を東アフリカで過ごしたことから絵と生き物が好きで,進路に悩んだ末に生物学の道に進んだが,常にこの選択が正しかったのか悩んでいた私にとって光明が差したように感じられた。その後は研究をしつつ絵の訓練も積み,博士2年の時にカリフォルニア大学サンタクルーズ校のサイエンス・イラストレーションプログラムに留学した。この大学院コース(当時)では一年間で必要な技術と知識を叩き込まれた後,インターンを終え修了という形を取っていた。インターン時代の私は,ニューヨークのアメリカ自然史博物館の古脊椎動物部門で新種のカメの化石の絵を描く仕事をしていた。そこにある日ナチュラル・ヒストリーという雑誌から大仕事が舞い込んできた。ゾウの鼻に関する記事につける絵が3点欲しいと言うのだ。実績もなく英語も拙い外国人にいきなり仕事を任せることに驚く一方,これは絶対に失敗できないという強い思いが沸いてきた。絵の構成から任された私は,原稿を読みスケッチをつくり,会ったことのない研究者とメールと電話でやりとりを始めた。少ない資料を求めて,博物館の図書館に大切にしまってあるフランスの大解剖学者ジョルジュ・キュビエ(G. Cuvier)が19世紀に描いた本を閲覧させてもらった。科学の歴史に触れるたいへん貴重な経験だった。また,ホルマリンを滴らせながら宅急便で送られて来た本物のゾウの鼻の輪切りを観察したり,絶滅種の鼻の長さを1ミリ伸ばせという研究者のこだわりにとことん付き合ったりと,そのプロセスは山あり谷ありで,今考えるとこの種の仕事のほぼすべてのエッセンスが詰まっていたと思う。

その後はアメリカと日本で経験を積み,2001年からは,日本でフリーの仕事をしている。最近では同業の有志と共にグループをつくり,昨年は日本動物学会にも参加し,専門知識をもったイラストレーターの存在を広める活動もしている。

フリーランスの仕事は,日々新しいプロジェクトと向き合わなければならずチャレンジングだが,自分の今まで知らなかったことを勉強する良いチャンスになっている。

研究を離れた今でも,当時と変わらない喜びを感じる機会が多々ある。それは,観察する喜びである。学部3年生の頃,マウスの諸器官の組織標本を作成し,それを顕微鏡で見ながら細胞ひとつひとつまでスケッチをするという実習を受けた。また三崎の臨海実習では,採集した動物を分類しながら描いてゆくという実習もあった。観察し,スケッチすることこそ,生物学研究の原点だと考えている。科学の進歩と共に,実際の形を観察する機会は減ったかもしれないが,ぜひサイエンス・イラストレーターを目指す人にも,研究者を目指す人にも,観察し見たものを手で描いてみるということをお勧めしたい。

※個人HP Utako Kikutani Illustration