ナウマンと三四郎池

ナウマンと三四郎池

木村 学(地球惑星科学専攻 教授)

図1

ナウマン(写真提供:フォッサマグナミュージアム)と現在の三四郎池

ナウマンとは明治八年(1875年),理学部の地質学教室に雇われて来日したドイツ人の初代教授である。来日した時には弱冠二十歳であった。彼の名前は,かつて日本列島に広く生息したが絶滅した象,ナウマンゾウの名として残されている。

ナウマンは十年という短い滞在中に,日本列島にどのような岩石が分布するかを表す地質図を作り,日本列島に眠る資源探査のための地質調査所創設にも関わった。

彼は帰国後,日本について講演をして歩いた。が,「百年経っても文明化しない野蛮な国」とナウマンが評したのを,留学中の森鴎外が聞いていて多いに憤慨した。そしてドイツの新聞上で論争になったこともまた,ナウマンの有名な逸話である。

その彼が,十年間という短い期間に日本列島の地質図を作ることができた方法の秘密が三四郎池にある。

三四郎池は,夏目漱石の小説「三四郎」で,主人公の小川三四郎が東大に入学した日,池の端から丘の上に立つ団扇をもった女性を眺めた風情,キャンパスの真ん中にあって思考する遊歩道の存在から呼ばれるようになった通称である。元々は江戸時代の加賀百万石前田藩の江戸屋敷の庭,「育徳園心字池」であることもよく知られたことである。

池の中央に島があり,沿道に石橋があり,そして水の落ちる人工滝もありと,手入れが行き届いていた時代には風流に満ちた日本庭園であったに違いない。更にその風情を増幅させる上で欠かせないのが配置されている庭石である。

全国の藩の江戸屋敷には必ず庭があり,庭には必ずそれぞれの国元から取り寄せた銘石が置いてあった。そして専属の庭師がいつも手入れしていたのである。明治となり江戸改め東京となったが,そのような庭が江戸時代の藩の数だけ東京にあることを,ナウマンは三四郎池から知ったに違いない。ナウマンは,各藩の江戸屋敷跡に残る庭石を片端から鑑定をしたという。そして,すでに完成していた伊能忠敬作成の日本地図の上に,その石の産地を次々とプロットしたという伝説が旧地質学教室には残されている。

庭石の中で風化し,奇岩となった青緑色の結晶片岩や赤色のチャート,白濁色の石灰岩などは特に珍重されたに違いない。それらの産地を地図に落とすだけで,日本列島に帯状に分布する「三波川(さんばがわ)帯」と後に呼ばれるようになる地質図ができる。そしてその北側を画する「中央構造線」という大断層が浮上する。ナウマンは三四郎池から日本を学んだのである。

百年以上も前に鴎外,漱石が大いに悩み抜いた西欧文明の一方的浸透と伝統的文化の矛盾の歴史が三四郎池にも刻まれている。グローバルキャンパスをめざす東京大学が,歴史の中で一時期荒れるに任せていたこの池をどう生かすのかは楽しみである。