第3回 the は常識を表す

トム・ガリー (Tom Gally)

the を名詞の前に付けると,読者は具体的にどのものが指されているかを知っているという前提になる。言い換えれば,どれが指されているか読者が分からないときに,the を使うべきではない。そのため,英文を書くときには,読者の知識を常に考慮しなければならない。

前回で説明したように,読者の知識は,その読者が以前から知っていること,または同じ文章の前に書いてあること,文章に付いている図,表,写真などから由来することが多い。しかし,その他に,誰でも知っている常識,または常識ですぐ推測できることも「読者の知識」だから,その場合も the を付けなければならない。

例えば,論文で実験を説明するときに,次のような文章はよくある。

  • A marble was put into the solution. Ten minutes later, bubbles were observed on the surface of the marble.
  • ビー玉は溶液に入れられた。10分後,ビー玉の表面に泡が認められていた。

最後のところで, on the surface of the marble に the marble (marble = ビー玉)となっているのは,前の文脈からどのビー玉が指されているのか読者に分かるからだ。溶液に入れられたビー玉そのものなのだ。では,なぜ surface (表面)の前にも the があるのか。 surface は前の文に出ていないし,図や写真にも見られないのではないか。理由は,文で読まなくても絵で見なくても,読者はどんなビー玉にも一つだけの表面があると分かるからだ。我々は「ビー玉」というものを子供のころから知っていて,常識でその表面の数を知っているのだ。厳密には the surface of the marble は,「ビー玉の唯一の表面」とも言える。

この場合, the surface は「常識で知っている表面」, a surface は「常識で知っているはずがない表面」の意味になる。もし,ビー玉のかわりにサイコロなど,複数の表面のあるものが実験で使われていたら, on a surface of the die などで, a surface となる(die = サイコロ)。

対象のものの特質が読者に知られていないときには, the の意味は少し変わる。その場合, the は読者に「あなたはそのものを知っているだろう」ではなく「そのものは一つしかないよ」と言っていることになる。

例えば, ethyl amyl ketone という,香料などに使われている化学物質がある。 EAK と略して,日本語でエチルアミルケトンという。 EAK の化学式は C8H16O だから, carbon (炭素)と hydrogen (水素)の原子は複数あるが, oxygen (酸素)の原子は一つしかない。もし EAK の分子から一つだけの原子を取り除く反応があるとしたら,どの原子が取り除かれているかによって冠詞が次のように変わる。

  • (1) The reaction removes a carbon atom from the EAK molecule.
  • 反応は,EAK分子から複数ある炭素原子の一つを取り除く。
  • (2) The reaction removes the oxygen atom from the EAK molecule.
  • 反応は,EAK分子から唯一の酸素原子を取り除く。

読者は EAK の分子構造を知らなくても, (1) からは炭素の原子が二つ以上, (2) からは酸素の原子が一つだけだと分かる。逆に, (1) に the carbon atom,または (2) に an oxygen atom と書いたら,読者は EAK の分子構造を誤解することになる。

冒頭で述べたように,英文を書くときに,常に読者が何を知っているか,何を知らないかを考えなければならない。そうしないと, the などの冠詞の使用が間違ってしまって,せっかく伝えたい情報が通じなくなる。

言うまでもないが,人間の知識を想定できるのは,人間に限る。現在は和英翻訳のソフトがいろいろ市販されているから,「冠詞使用など,ややこしい英文法を学ばなくても翻訳ソフトを使えば英語が書ける」と思う人が多いようだが,とんでもない間違いだ。どの最先端の翻訳ソフトにも「ビー玉には表面が一つしかないことは,誰でも知っている」や「エチルアミルケトンの分子構造は C8H16O だから,炭素の原子は複数あるが,それを知っている人は多くないでしょう」のような知識は,全く組み込まれていない。機械翻訳は機械同士のコミュニケーションに使えるかも知れないが,人間と人間のコミュニケーションには役に立たない。

the などがややこしいと承知しながら,次回は,冠詞がいつ必要か,いつ不必要かについて検討したい。