第1回 コミュニケーションの基本は相手が知っていることを考慮することだ

トム・ガリー (Tom Gally)

この間、東京の新宿界隈を歩いていたら、知らない人に英語で話しかけられた。彼はアジア系の外国人のようで、私に次の質問をした。

  • Can you help me? I'm looking for the department store.
  • (助けていただけますか。デパートを探しているのです)

私は最初、どう返事をすればいいかわからなかった。20年以上日本に住んでいて、新宿の周辺もよく知っているが、その簡単な質問にすぐに答えられなかった。理由は the だ。

the は、英語でもっとも使用頻度が高い、意味がもっとも深い単語である。それにもかかわらず、日本人など、英語を母国語としない人にとっては、もっとも使いにくい英単語だと思う。私が新宿で混乱したのは、出会った人が英語のネイティブではなく、彼の the の使用が間違っていたからだ。

the department store の the で何が間違っていたかを説明する前に、まずコミュニケーション(情報伝達)について少し考えたい。私たちが会話、講演、論文などで他の人に情報を伝えようとするときに、最も大切なのは自分が伝えたい情報が相手に正しく理解されることだ。それはコミュニケーションの基本だ。しかし、知識や理解力は相手によって違うし、また、時や場面によっては私たちが使う言葉が別の意味で相手に解釈されることもある。同じ情報を伝えようとしても、相手によって言葉を変えなければならないことが多いのだ。

例えば、理学系の文章で特に問題になるのは専門用語だ。科学で使っている概念は非常に多いから、当然ながらその概念を指す用語も多数ある。科学技術の専門辞書には十万以上の見出し語があるが、それは実際に使われている専門用語のほんの一部でしかない。辞書にまだ載っていない最先端分野の用語、または化学物質の名称や動植物の学名を含むと数百万になるだろう。一人の人間が知っている単語数は3万〜7万ぐらいと推測されているから、私たちはほとんどの専門用語を知らないわけだ。

そのため、自分の専門分野についてレポートや論文などを書くときに、その読者がどういう知識を持っているか、考えなければならない。対象読者は自分と同じ専門で、その専門の常識をよく知っているなら、専門用語を説明しなくてもいいかも知れない。しかし、読者が違う分野の専門家、または一般人だったら、各専門用語の意味を丁寧に説明しなければならない。読者の知識によって説明を入れたり入れなかったりするのは、「相手が知っていることを考慮すること」なのだ。

専門的な言葉だけではない。「相手が知っていること」というのは、勉強などで学んだ「不変な知識」のほか、「今、この文を読んでいるときに知ったこと」も含む。これは「場面で生じる知識」と言える。英語の場合は、場面で生じる知識を this、 that、 such、 he、 she、 it、 our などで表す場合が多い。これらの言葉が使えるのは、その言葉が何を指しているか相手にわかる場合だけだ。例えば、論文で「this experiment」 (この実験) と書いたら、前の文で具体的にどの実験なのか説明されているはず。「when she discovered it」 (彼女がそれを発見したとき) と書いたら、彼女はどの人か、彼女に発見されたものはどういうものか、文脈でわかるはず。そのような説明や文脈がなくて this、she、 itなどを使うと、読者が混乱するだろう。

私が新宿で混乱した理由は、 this と she と it と同じように the にも「相手が知っている」という意味が含まれているからだ。普通、

  • I'm looking for the department store.

と言えるのは、話し手が探しているデパートが具体的にどのデパートなのか、聞き手が知っているときだけだ。しかし、新宿には伊勢丹、三越、高島屋など、複数のデパートがあるから、私がそのアジア人に初めて会ったときに、彼がどのデパートを探していたか私にはわかるはずがなかった。

結局、私は

  • Which department store are you looking for?
  • (どのデパートを探していますか)

と聞き返して、彼は

  • Any department store will do.
  • (どのデパートでもいい)

と返事した。私は近くにあるデパートを案内した。もし彼が最初から

  • I'm looking for a department store.

と、 the の代わりに a を使ってくれたら、こうした問題は起こらなかっただろう。

次回から、 a との違いなど、 the の意味をもっと詳しく説明していきたい。