第3回

化学専攻

梅澤 喜夫(化学専攻 教授)

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歴史

理学部化学教室の旧館(現在の化学東館)

図1:御殿下運動場に面した化学教室旧館(現東館)と並木道。本郷キャンパ スで最も美しい界隈の一情景

化学科の創設は東大の創立より古いとされています。徳川幕府の教育機関である洋学所を引き継いでおり,最初の化学科卒業生は1877年で,東大中で一番早いことになります。

第2食堂の向かいの美しい赤レンガは築後83年で,東大本郷キャンパスで最古のものであり,関東大震災,空襲からも免れ保存建物になっています(図1)。

自然界の広大な物質群,そしてそれらによって構成される壮大な物質世界や生命世界を,分子レベルで探索・研究する学問,それが化学です。物質の性質・法則や物質間の化学反応を研究することはもとより,バイオテクノロジー,エレクトロニクス,新素材,高機能性物質など現代科学技術の先端領域のいずれにおいても,その基礎の理解や,それに基づく新物質,物質の観察・解析に関わる新手法などの創成・創案は,分子レベルや分子集合体レベルで行われています。したがって化学を重要な基礎とする領域は,理学・工学はもとより,医学・薬学,農学,環境科学など,広い範囲にわたっています。化学科は,駒場の学生が進学して,以上のような地位を占める「化学」を学ぶ学科です。

歴史に残る化学科の研究業績は少なくありませんが,水島三一郎教授らの回転異性体の発見,これはジクロロエタンの内部回転が自由回転でなく,ひっかかりをもってジグザグと起こることを見つけたことです。これはタンパク質のαヘリックスなどの分子の立体配座につながる概念のはじめで,シクロヘキサンのペコペコ,つまり椅子型・ボート型の反転異性体の発見とともに分子構造のしなやかさの概念を導入した重要な仕事です。

皆さんがご承知の「味の素」は,池田菊苗教授が海草のコンブをぐつぐつ煮て,上澄み液を抽出分離した液の成分です。池田先生は,それがおいしい「うまみ」をもっていることを見つけ興味をもってその化学物質が何であるか調べました。その結果,アミノ酸のグルタミン酸のナトリウム塩であることを見つけました。それが特許を経て今日の「味の素」になったことは,知る人は知る物語です。この業績の学問的な意義は,ホルモンやフェロモンと同様に,うまみ成分という化学上のコンセプトを見出したことです。

赤松秀雄教授の研究室では,1950年初め,多環芳香族炭化水素(ベンゼン環が二次元に多数つながった化合物)にヨウ素を加えると,電気伝導性が絶縁体から飛躍的に半導体のレベルまでに上昇することを発見しました。これは「有機半導体」の発見とその概念の創成という歴史的に意義深い優れた仕事であり,1954年の赤松,井口,松永のNatureの論文はよく知られています。その後の伝導性高分子のもとになる仕事であることは言うまでもありません。

化学科は創設から今日まで約3000人余の卒業生を送り出していますが,これらの人たちの多くは,わが国の化学関連領域における大学,官庁の研究・教育職,および産業界の研究所で指導的立場に立っています。

教育

学部教育にまず触れると,化学は実証科学ですから基本的に実験の教育にたいへん力を入れています。3年生では平日の午後はすべて学生実験にあてられています。午前中は講義です。講義は4年生の夏学期まで続き,その単位は関連学科の講義を含めて認定されます。4年生は4月から研究室配属になり,卒業論文作成のための研究実験が始まります。卒業論文作成の研究実験は,化学科など理科系の学生にとってもっとも充実感を味わえる時間となります。それは,そこで初めて自然科学の研究とはどういうものか実体験をすることができるからです。卒業研究を修了し学部を卒業する学生は,そのほとんどが本化学専攻ないし他研究科専攻の修士課程に進学します。化学専攻では,本来の化学科の教員に加えて,スペクトル化学研究センター,地殻化学研究施設,物性研究所,総合文化研究科,海洋研究所,地震研究所,JAXA宇宙科学研究本部などの化学関連領域の教員が研究教育に参画しています。

研究

化学専攻では,21世紀COEプログラム「動的分子論に立脚したフロンティア基礎化学」と題する研究プロジェクトが走っています。このCOEプログラムは,全国の化学・物質科学の研究機関が選ばれて研究教育機関自体の総合的レベルの高さを競うもので,本化学専攻は同分野で卓越した全国一の評価を得,5年間の継続で高額の研究教育資金を外部資金として国から受けています。

この研究プログラムでは,分子の動的本質に迫る分子論を研究して,21世紀の基礎科学の発展を先導しようとしています。実験と理論,時間分解と空間分解の分析法,現象解析と物質創製など,高度の研究を行っています。すなわち,分子の動的性質を計測,解析,評価,制御,創出する基礎化学のフロンティアを開拓し,化学のさらなる進化の原動力となる分子概念や方法論,新物質や新反応を生み出し,基礎化学の新しい指導原理の確立を目指しています。

具体的には,超高速分子分光,強光子場反応,放射光時間分解X線分光,触媒表面科学,分子論的電子論的反応制御と物質創製,中性単一成分分子金属の合成,超分子液晶分子設計,細胞内可視化物質の合成と分析など,国際的に秀でた実績を上げています。このCOEプログラムは,化学専攻が中心になり,それにスペクトル化学研究センター,地殻化学実験施設,新領域創成科学研究科,工学系研究科,総合文化研究科の選ばれた教授らが参加し,東大化学系の多角的学術交流の中核として役割を果たしています。

図2:湿度が下がることにより強磁性から反強磁性的な磁性体に変換する。6-配位のCoIIが4-配位のCoIIに変換することにより,強磁性的な6-CoII-Crが反強磁性的な4-CoII-Crにスイッチングしたことに起因する。

図3:Rh/Al2O3触媒のCO吸着誘起クラスター分解過程の分散型時間分解X線吸収微細構造(DXAFS)。

図4:オキシム類を用いる反応中間体の創製と触媒的含窒素環状化合物の合成。

図5:フラーレン二分子膜ベシクル(上),バッキーフェロセン(左下),および,シャトルコック型液晶(右下)

図6:ミトコンドリア局在タンパク質を同定するプローブの原理図。N末側のプローブに連結したタンパク質(オレンジ)がミトコンドリア内に輸送されると,予めミトコンドリア内に局在していたC末側のプローブとDnaE間で相互作用する。その結果,プロテインスプライシング反応が起こり,GFPが形成される。

図7:金属錯体型“人工DNA

12の研究室

化学専攻には基幹研究室として12の研究室があります。学部の化学科を構成する研究室に対応するものです。この12の研究室は便宜上,物理化学系,有機化学系,および無機・分析化学系に3等分され,研究教育を担当することになっています。

濵口宏夫教授の研究室

この先生は何故かよくインドに行きます。「ラマン効果」の国だからでしょう。ラマンスペクトルや赤外吸収スペクトルなどの振動スペクトルは,別名「分子の指紋」と呼ばれるように,分子の個性を鋭敏に反映するという特質をもっています。濵口教授のグループでは現在,時間と空間を分解した新しい時空間分解振動分光法の開発と,それを用いたさまざまな複合分子組織体の構造,機能,組織化機構の解明を目指した研究を推進しています。

大越慎一教授の研究室

大越教授は一番フレッシュな着任ほやほやの若い先生です。新規物性および新規機能性を備えた強磁性体の創製を通じて,新しい物性化学の学術的フィールドを開くことをめざし研究を行っています。温度により磁化が二回反転する磁性材料,負の保磁力を示す磁性材料,湿度に応答する磁性材料を初めて合成しました(図2)。光磁極反転,磁化誘起第3高調波発生の初観測に成功しています。

山内薫教授の研究室

山内教授の強光子場の化学は,文字通り“something”です。従来の「摂動」の概念から乖離した新しい化学反応場としての強い光子場の中の化学の探索になります。分子が強光子場中に置かれると,複数の電子状態が激しく混合し,新たな状態を形成します。その結果,構造変形,多重イオン化,クーロン爆発などさまざまな興味深い現象がおこることが期待されます。山内研究室では,そのような強光子場中における分子・クラスターの動的挙動および反応過程を調べています。

岩澤康裕教授の研究室

岩澤教授は,現在,理学系研究科長・理学部長として多忙をきわめておられますが,研究室では落ち着いた静寂の下で素晴らしい研究が進行しています。触媒反応および表面反応の時間空間制御を基軸に据え,表面での動的化学現象の駆動機構は何かという化学の重要命題を明らかにすることを究極の目標としています。そのために,活性触媒表面の設計・精密構築,走査プローブ顕微鏡を用いた活性表面の構造解析と表面反応の画像化解析,X線吸収微細構造法による表面構造や電子状態の時間分解解析を推進しています(図3)。

川島隆幸教授の研究室

ヘテロ元素化合物,すなわち炭素以外の元素を骨格に含む有機化合物を新合成することがこの研究室の興味です。典型元素化合物の性質や安定性は,配位子に大きく左右されます。分子のかさ高さ,剛直性・柔軟性および電子的特性を考慮し,特定の位置を占拠する配位子,外部刺激に応答する配位子,立体保護効果を有する配位子のそれぞれを設計・開発し,典型元素化合物の合成へと応用しています。

奈良坂紘一教授の研究室

奈良坂教授は来春めでたく定年です。新しい反応活性種生成法の研究は,それを利用する新しい合成反応の開発へとつながります。奈良坂研究室では,これら反応活性種の新しい発生手法を開発し,それを利用することによって従来の方法では実現が困難であった炭素骨格や含窒素複素環骨格の構築反応の開発を行っています。これらの結合生成反応の開発は,医薬,農薬,機能性材料に用いられる重要化合物の基本骨格の簡便な合成法を提供しています(図4)。

橘和夫教授の研究室

この教授は駒場からの進学の時に化学科にしようか数学科にしようか迷いました。橘グループの研究では,膜タンパク質の活性化状態に強い親和性を示す天然毒などの外因性分子を用いて活性化状態の寿命を延ばすことで,その立体構造情報を取得解析し,膜タンパク質の活性化に関する構造的根拠を解明することを目的としています。

中村栄一教授の研究室

中村教授は流れるように化学の研究・教育の仕事を進め,“professor of chemistry”になるために生まれてきたような同僚です。元素や分子に内在する性質を解き明かし,その反応性を制御することは化学者の夢です。中村研究室では自然科学,技術の諸分野に波及する価値をもった有機化学の新反応,新分子,新原理を開拓すべく研究を行っています。化学関連分野への強いインパクトを与える新物質創製研究を展開していることを特色としています(図5)。

長谷川哲也教授の研究室

固体化学を研究する研究室です。固体とくに無機強相関系では,超伝導や磁性など多様かつ特異な物性が出現しますが,多くの場合,これらの現象はナノスケールでの電子状態の“偏り”に由来しています。そこで原子層制御薄膜技術を駆使し,熱平衡下では得られない構造や組織を導入することにより,巨大な効果を伴う新機能,新物性の探索を進めています。

梅澤喜夫教授の研究室

私,梅澤も来春めでたく定年を迎えます。“見えないものを見えるようにする,測れないものを測れるようにする”方法を創る研究を行っています。細胞情報伝達の分子過程を認識して,その場で蛍光・発光の光信号に変換し,細胞外に出力する光プローブを体系的に開発しています。他にもSTM分子探針を創案し,分子間電子トンネル効果に基づく化学種,官能基の選択的可視化検出法の開発を行っています(図6)。

西原寛教授の研究室

西原教授は,光,電場,磁場,プロトンなどの環境に感応して性質を変化させる分子を創ることに専念しています。基礎的に面白いし,役立つからです。遷移金属原子とπ共役鎖によって構成される多感応な新しい分子を作り,配列制御が可能な不連続な界面を利用して,いわゆるインテリジェント分子を世に送り出すことを目指しています。

塩谷光彦教授の研究室

塩谷教授は,生体高分子の特異的な折りたたみ構造や集積構造と機能の相関から発想を得て,新規機能性分子としての人工生体高分子の創製が可能であると考えています。研究室では,創ろうとする分子の構成として金属配位子型分子を導入し,人工DNAや金属錯体型ペプチドの新合成を行っています(図7)。

最後に

「化学」は一時,公害や有害化学物質といった陰の面が強調されるような印象を与えた時期もありましたが,それは一過的な風潮で,「もの」の道理を心得ている賢明な人々は,「化学」は人類の福祉と幸福の源になる物質を発見し,創製するかけがえのない学問であることをよく知っています。化学専攻の教員諸氏は高い誇りと責任をもって,この「化学」の研究と教育に日夜励んでいます。