早熟すぎた数学少年時代
3×5は3を5回足す。5×3は5を3回足す。と、違うふうに習ったのに、どうして答えは一緒なの? そのことに、小学生の今井は得も言われぬ不思議さを感じたという。今井少年が算数に夢中になった理由の一つである。
「中学受験の勉強で通っていた塾の先生が、『素数が無限にあることを証明できるだろうか』みたいなことを授業で生徒に投げかけたことがありました。私はその問いについてしばらく考え続けて、きちんとした証明になっていたかどうかはわかりませんが、塾で習った算数の問題の解き方のアイデアを使って、素数が無限個あることを自分なりに証明したことがありました。ちゃんと自分で考えたら証明できるんだというこのときの経験から、数学とは論理でできているものなのだということを子どもなりに感じたのかなと思います」
それにしても、なんと早熟な数学少年だったのだろう。中学の時にはすでに高校の数Ⅲの勉強をしていたという。
「家から学校まで電車で2時間近くかかったので、電車の中で高校の数学の教科書を読んでいました」
その理由が「ただ、不思議で、面白かったから」なのである。
ちなみに、中学3年から高校3年まで今井は国際数学オリンピックに4年連続出場し、高校3年の時には金メダルを獲得している。
そんな今井少年だったが、一時期は物理にも関心が向いた。
「中学、高校の時に、宇宙の始まりは何だったのだろうとか、宇宙の根源的な現象を理解したいと思った時期があって、物理をちょっと勉強しました。とても面白かったのですが、大学に入って物理を学ぶとなると大学数学が必要だということを知って、それならまずは先に数学を勉強しようと思ったのですね。でも、結局そのまま数学になっちゃったという感じで(笑)。理論だけで完結している、理論ですべて説明できる、そういうのがなんとなく自分には合っているなと思いました」
そして青年となった今井は、東大理学部へと入学するのである。
壮大なラングランズ・プログラム
28歳で准教授となった今井は現在(2025年時点)41歳。「数学の勉強はどちらかというと修行に近いかもしれない」と語る彼が精力的に取り組んでいるテーマが『ラングランズ対応の幾何化について』というものである。多くの読者にとっては初めて目にする用語かもしれないが、実はこれ、物理学での大統一理論にも匹敵するような、数学の世界における壮大なテーマなのである。それゆえに、修業というよりは、むしろ未踏の地へと向かう大冒険であり、ゲームふうに言えば、今井は飽くなき挑戦を続けるブレイブ(勇者)なのかもしない。
「ラングランズ対応というのは、二つの大きく異なる数学的対象の間に深い関連があるというもので、その一つの数学的対象がガロア表現です。もう一方の対象が保型表現と呼ばれるもの。この二つの間に何らかの関係があるというのがラングランズ対応です」と、今井は説明してくれたが、物理学の統一理論に例えるともう少し分かりやすくなるかもしれない。
物理学では四つの力(強い力、弱い力、電磁気力、重力)はかつて別々の理論によって解明され、説明されていた。これを一つの理論によって統一しようというのが大統一理論だ。すでに弱い力と電磁気力はワインバーグ=サラム理論によって統一され、いまは強い力との統一を目指して大統一理論(GUT)の研究が進められている。今井の言う「数学的対象」を、乱暴ではあるが、この四つの力のように考えてみるとわかりやすいかもしれない。
あるいはまた、この数学的対象は大陸になぞらえて語られたりもする。つまり、数学の世界には数論、幾何学、調和解析、表現論、数理物理学など、さまざまな分野があるが、それらは離れて存在する大陸のようなものだというのだ。数学者たちは、それぞれの大陸で独自に研究を進め、同じ数学の世界ではあっても、それぞれの大陸を結ぶ巨大な橋のようなものは無いと考えてきた。ところが、このまったく異なる大陸で見られる別々の現象に、なぜか似たようなものが見つかるときがあるのである。言いかえれば、それぞれの大陸で独自に進化したと思われていた生物(この場合は『ガロア表現』という生物と、『保型表現』という生物だ)に、不思議な共通点がありそうだということがわかってきたということなのだ。ということは、大陸の枠を超えた、もっと深い数学世界が存在しているのではないか。その証拠となるのが「ラングランズ対応」であり、そしてこの異なる大陸間に巨大な橋を架けようという壮大な計画のことを『ラングランズ・プログラム』というのである。
1967年、30歳で無名の数学者だったロバート・ラングランズが、高名な数論学者アンドレ・ヴェイユに宛てた一通の長文の手紙によって、このラングランズ・プログラムは生まれたと言われる。「もしも読んでいただけないならゴミ箱に捨ててください」という謙虚な書き出しで始まるこの手紙には、異なる数学分野に属する二つの対象の間には対応関係があるという、当時としては「あり得ない」とだれもが考えた驚くような予想が書かれていたのである。ここがすべてのスタート地点だった。なお、ロバート・ラングランズはその後、あの有名なプリンストン高等研究所の教授となり、アインシュタインが使っていた部屋を受け継いでいる。それほど、このラングランズ・プログラムは現代数学にとって大きな意味を持つものということなのだ。
数学世界の背後にある何かに向かって
このラングランズ・プログラムという挑戦の一翼を担おうとするのが今井の研究である。彼はガロア表現と保型表現という「別々の大陸にある存在」の間に横たわる深い関係を見つけ出そうとするのだ。
ガロア表現とは、ガロア理論におけるガロア群*の振る舞いのことであり、これは数学の世界では数論という分野に入る。一方の保型表現は、調和解析というサインやコサインといった関数によって波や周波数などを扱う分野に入るものだ。この数論と調和解析は、まったく異なる「大陸」と見なされていたが、実はこの二つの間に、深いつながりが隠されているのではないのか。だとしたら、それはどういうものなのか。それを見つけ出そうというわけである。
「群の構造や群に関する情報を引き出す方法のことを『表現』と呼ぶのですが、たとえばガロア群の表現を一つ持ってきたとすれば、それに対応している保型表現が一つある。つまり、群としてはまったく異なる群であるのに、その表現の間には一対一の対応がある、それがラングランズ対応というものであり、それについて私なりの視点から研究を続けているのです」
話が脱線するが、ガロア表現とは、この理論を発見したフランスの数学者エヴァリスト・ガロアの名から取ったもので、彼は1832年(なんと2世紀近くも前!!)、20歳という若さで決闘に敗れ、死んでいる。劇的なのは、このガロア理論を彼は決闘を控えた直前の数日で書き上げたことだ。死を覚悟していたのだ。5次以上の方程式には解の公式がないことを証明したのも、このガロア理論だ。それにしても、なんという天才なのだろう……。
さて、今井がこのラングランズ対応を調べるといっても、もちろん二つのものを並べて見比べるといったそんな単純なことではない。そこにはとても複雑で、かつ深遠な数学的探究が必要とされる。そこで今井がツールとして用いるのが、p進数体とモジュライ空間というものである。
p進数体とは、ある数と数の距離を素数pで割り切れる回数で測るという、特殊な数の世界のこと。モジュライ空間とは、個々の図形が一つの点で表されるような、これまた特殊な幾何学的空間のことである。これ以上の説明は筆者には困難だが、つまり、さまざまな数学的技巧、数学的発想を駆使しないと、このラングランズ対応の研究が進められないほど、複雑で困難な道のりを今井は歩んでいるということなのだ。
「私が取り組んでいる、数論的な設定でのラングランズ対応の幾何化は新しい、ホットなテーマです。まだ、最終的にどういった形で定式化すべきかだれもわかっていないテーマでもありますので、その理解に少しでも貢献したいと思っています。このラングランズ対応はとても広大な領域にわたる問題なので、ある一人の数学者が一人でぜんぶ発見して、『はい、統一しました』というようなスケールのものではありません。いろいろな人の研究が合わさって、すこしずつわかっていくようなレベルのものだと私は思います。何か統一的なものが数学世界の背後にあるにちがいないと期待して、そこに向かって歩んでいきたいですね」
ラングランズ・プログラムは、物理学の世界とも大きな関わりを持っている。つまり、今井の研究は数学のみならず、物理学の発展にも大きく寄与するものだということであり、その意味では歴史的なテーマに向かって今井は歩いているのだ。
*群とはあるルールを満たす数や操作のグループのこと。群について、詳しくは同じ数理科学研究科の大島芳樹先生の記事をご覧ください。
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/rigakuru/research/fbcmqaIC/
果てしなく広がる数学の世界
数学の世界はすでに完成された、わからないことなど何もない完璧な世界のように見える。だが、今井はこう言う。
「まだ人間には見えていない数学の世界が果てしなく広がっているはずです。私たちの仕事は、それを少しずつ見えるようにしていくことです。その時に、どういうふうに定式化して捉えるかというのがとても大事で、同じ対象でもうまく捉えていない、うまく定式化していないと、どんなに頑張ってもわからないままになってしまいます。一方で、うまい定式化のしかたを見つけると、問題自体もきれいに定式化でき、何が起きているのかが、すっきりとわかりやすくなるのですね。でも、そういうのはいきなり見つかるものではありません。いろいろな人が試行錯誤を重ね、いろいろな方法や考え方が組み合わさって少しずつ進んでいくのですね」
その進んでいる先に何があるのか。取り組んでいる数学者にも、実はそれが見えないのだと今井は言う。
「だから、数学がどれほど広大な世界なのかというのは、私たちにも実はわからない。数学の初等的な問題でもわかっていないこと、解けていないものはまだたくさんあります。だから、きっと、もっと深い数学、理解すべき数学というものが、まだまだたくさん残っているんだろうなと、個人的には思っています」
300年以上未解決のままだった『フェルマーの最終定理』(「3以上の自然数 n について、xn + yn = zn となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない」という定理)が1994年、数学者アンドリュー・ワイルズによって証明された。これにはラングランズ・プログラムの予想が重要な役割を果たしたとされている。さらに、ラングランズ以前に提唱された、谷山豊と志村五郎という二人の日本人数学者による『谷山・志村予想』もまた重要な役割を果たしており、これはラングランズ・プログラムにも影響を与えたと言われている。この『フェルマーの最終定理』をめぐっては、もっと多くの数学者たちがさまざまに関わり、進んでは後退しを繰り返し、そしてワイルズの証明へとつないできたのである。つまり、これが今井が語る、数学とは多くの人のさまざまな努力が響き合うことで少しずつ進んでいくものということなのだ。
数学に関心がある高校生や大学生に向けて、今井はこんなメッセージを話してくれた。
「思いもよらないところに関係性を見つける、それが数学の面白いところです。勉強していく途中で抽象的な理論に出会って戸惑うこともあるかと思いますが、くじけずにしっかりと身につけることです。数学的なうまい考え方ができるようになると、わからなかったことがすっきり理解できるようになります。すると、異なる対象の間にある関係が見えてきたり、面白い現象が説明できたりするようになり、とても楽しくなります。だから、よくわかんないからと、面白くないからと、諦めたり、投げてしまったりしないでほしいのです。そのちょっと先にあるとても面白いものを見るチャンスを失ってしまうことになるのですから」
さて、これまでの研究生活で一番嬉しかったことは何かと聞いてみたら、一番最初の研究でいい結果が出た時だと今井は言う。
「修士で、23歳ごろの時です。それまで研究というものをしたことがなくて、自分に研究というものができるのだろうかと悩んでいた時期もあり、そのせいもあって論文を書き上げたときはとても嬉しかったのですね」
ちなみに、そのときの論文名は『有限平坦モデルのモジュライ空間の連結成分について』で、ガロア表現とモジュライ空間についての研究だったそうである。
「論文が掲載されたときよりも、解けて結果ができたその瞬間の方がずっと嬉しかったですね」
プライベートでは11歳、7歳、3歳の三児の父。算数の宿題が「わからない」と言われれば一緒に解いてあげる、優しいパパである。
※2025年取材時
取材・文/太田 穣
写真/貝塚 純一


