2014/1/7 (配信日1/6)

細胞の運動法則を発見

— 生物と非生物の運動様式の共通点・相違点解明へ —

発表者

  • 谷本博一(東京大学大学院理学系研究科物理学専攻 博士研究員(現ジャックモノー研究所 博士研究員))
  • 佐野雅己(東京大学大学院理学系研究科物理学専攻 教授)

発表のポイント

  • 細胞が自ら生み出す力の空間分布応力場(注1)を解析する新しい手法を導入し、細胞運動の物理的なメカニズムを明らかにした。
  • 従来の典型的な生物学の研究とは異なり、物理学的な視点から細胞運動を研究した結果、細胞の運動が非生物の運動とは本質的に異なる点を明らかにした。
  • 細胞運動は癌細胞の転移に代表される多数の疾患に関わっており、その原理の解明は応用的にも重要である。

発表概要

自ら動くことは細胞の基本的な性質の一つである。では、生物の運動は非生物のそれとはどのように異なるのであろうか?その問いに答えるためには生物の運動を物理学の視点・方法で理解しなければならない。

東京大学理学系研究科の谷本博一研究員と佐野雅己教授の研究グループは、細胞が生み出す物理的な力と細胞の運動との間に成り立つ関係を明らかにした。研究グループはまず牽引力顕微鏡(Traction Force Microscopy)(注2)と呼ばれる手法を用いて、運動する細胞が蛍光ビーズを埋め込んだ柔らかい基盤に与える応力場を測定した。次に測定結果を定量的に解析することで、応力の総和ではなく、空間的な非対称性が細胞の運動方向を決定することを発見した。この力-運動の関係は、外力の総和の方向に運動する非生物のそれとは本質的に異なるものである。

本研究は生物学・物理学の境界領域に属する数少ない研究であり、細胞の力と運動との関係を明らかにした初めての報告である。細胞運動は癌細胞の転移に代表される多数の疾患に関わっており、その原理の解明は、将来的には医学への応用へとつながるものと期待される。

発表内容

図1

図:細胞が自ら生成する力場と運動との関係。細胞の位置と力場(細い矢印)の時間変化を色(青から赤)、解析によって求めた応力場の非対称性を太い矢印で表している。太い矢印が細胞の運動方向を正しく示していることがわかる。

拡大画像

運動は細胞の基本的な能力の一つであり、癌細胞の転移に代表される多数の疾患に関わっている。細胞運動の機構については生物学的な立場からすでに数多くの研究がなされており、関わっている因子の同定が進んでいる。一方、物理学的な立場から細胞運動の「原理」を探る試みは始まったばかりである。物理学の方法論を用いて細胞の運動を研究することで、その原理が明らかになり、生物と非生物の運動様式の共通点・相違点が明らかになることが期待される。

非生物の受動的な運動は外部から加えられた力によって駆動され、その外力の総和と運動との間の関係はニュートンの運動方程式(注3)として古くから知られている。対して細胞は外界から取り込んだ化学エネルギーを利用して、外力によらず能動的に運動することができる。細胞運動の典型的な時間・空間スケールでは慣性力が無視できるので、細胞が自ら生み出す力(内力)の総和は実効的に0になる。このことは非生物の場合と異なり、外力で駆動されるニュートンの運動方程式は細胞の運動をよく記述しないことを意味している。合力0の内力によって細胞が運動する仕組みを明らかにするためには、単に和を計算するのではない応力場(注1)の新しい解析方法が必要であるが、これまで力の測定から細胞の運動を予測できるような解析方法は知られていなかった。

東京大学理学系研究科の谷本博一研究員と佐野雅己教授の研究グループは、多重極展開と呼ばれる手法を導入することで細胞の応力場の空間構造を解析し、応力場の空間非対称性と細胞の運動とが関係していることを明らかにした。多重極展開は複雑なデータを座標の級数で展開することにより、その空間構造をいくつかの簡単な指標で代表させる手法である。この手法は流体物理学・原子核物理学など物理学の様々な分野で応用されている一方で、生物学においてはこれまでほとんど使われていなかった。研究グループは牽引力顕微鏡(Traction Force Microscopy)(注2)を構築し、典型的な運動性細胞である細胞性粘菌の応力場をナノニュートン・マイクロメートルの精度で計測した。さらに得られた測定結果を多重極展開に基づいて解析し、応力場の回転対称性と前後対称性それぞれの破れ(注4) (注5)を特徴づける2つの指標を計算した。その結果、これら2つの指標が細胞の運動方向を決めていることを明らかにした。これは細胞の力と運動との関係を見出した初めての報告である。

本研究は、細胞が自ら生み出す応力場に対して新しい解析手法を導入することで、いわば細胞の運動法則に当たるものを発見した。この手法はほかの生命現象、とくに多細胞生物へも応用可能なものである。たとえば多細胞生物の発生過程では、個々の細胞が空間的に協調して運動することで複雑な成体が形成される。本研究で導入した手法は、個々の細胞の運動だけではなく、運動している細胞同士の相互作用をも記述しうるものであり、多数の細胞が協調して運動する現象への応用が期待される。他方、本研究により得られた知見は、物理学分野で現在精力的に行われている細胞運動の理論的な研究の鍵となるものでもある。本研究は生物学的課題に対して物理学的な方法論が有効であることを示すものであり、生物学・物理学各分野への波及のみならず、両分野の融合的な研究のきっかけとなることが期待される。

発表雑誌

雑誌名
Biophysical Journal
論文タイトル
A simple force-motion relation for migrating cells revealed by multipole analysis of traction stress
著者
Hirokazu Tanimoto and Masaki Sano
DOI
10.1016/j.bpj.2013.10.041
URL
http://dx.doi.org/10.1016/j.bpj.2013.10.041

用語解説

注1 応力場
細胞が接着している外部基盤に及ぼす力。細胞が自ら生成する力(内力)のほぼ全てがこの応力場であり、この力を用いて細胞は運動・変形する。
注2 牽引力顕微鏡(Traction Force Microscopy)
共焦点顕微鏡と画像解析手法を組み合わせることで、細胞の応力場を定量的に測定する装置。蛍光ビーズを埋め込んだ柔らかい基盤を用いて、細胞が生み出す応力による基盤の変形量を測定し、その結果から細胞の応力場を基盤の弾性問題を解くことで計算する。
注3 ニュートンの運動方程式
物体に働く力と運動の関係を記述する方程式。物体に働く力の総和と物体の速度変化が比例することを示している。
注4 回転対称性
ある図形が中心周りの任意の回転により元の図形と一致する性質。応力場の回転対称性が破れていることは、応力場に特定の軸(主軸)が存在することを示している。
注5 前後対称性
ある図形が軸に対する反転により元の図形と一致する性質。応力場の主軸に対する前後対称性は、細胞の頭部と尾部の違いに対応している。